乃木 1/46。 乃木希典と同世代の軍人

乃木希典と同世代の軍人

乃木 1/46

注:この記事は、彼女に心ない批判を浴びせたり、無理やり擁護することを目的としていません。 既に2019年に突入していますが、去年の乃木坂46に関する話題を取り上げようと思います。 2018年9月2日に放送された乃木坂46のレギュラー番組『乃木坂工事中』(テレビ東京系列)での、「堀ちゃん」こと2期生の堀未央奈の発言が、ファン(ファンとは言えない連中もいるけども)の間で少し話題…ネガティブに言えば物議を醸しています。 新部活のプレゼンで中田花奈が、モノの名前やキャッチコピーなどを一般から募集して決める「公募部」を提案。 (中略) 中田は「山手線の新駅 名 」 賞金・商品ナシ や「ビールに合う!3分間おつまみコンテスト」 金賞:賞金1万円 、「校章デザイン」 採用で10万円 、「探すぞ!つちのこ つちのこ探検隊」 生存捕獲で1億円 を例に挙げた。 (中略) 堀が手を挙げ、新駅の名前ではなく 「私、校章のやつ…過去に 公募に 出して選ばれてて…」と意外な告白を。 司会の設楽統 バナナマン が「どこ? 堀が考えた校章なのその学校?」と、驚きながら興奮気味に質問すると、堀は 「地元 岐阜 の中学校なんですけど。 多分みんな その中学の学生 は知らないと思うんですけど。 公募して選ばれて」とコメント。 設楽が「どういうの出したの?」と再び尋ねると、堀は 「岐阜が清流の街なんですよ。 そこから基づいていろいろデザインして出したら選ばれて」と説明。 僕もこの回の放送をテレビで観たので、はっきりと覚えています。 この発言を素直に理解すれば、 「地元中学(岐阜市)の校章デザイン案の公募に応募し、堀ちゃんのデザイン案が校章になった」ということになると思います。 しかし、これは事実と異なります。 この中学の校章デザインに 採用された人物は他にいるのです。 ではなぜ、堀ちゃんは「校章デザイン案が選ばれた」との発言をしたのでしょうか。 流石に、全く出してもいない、選ばれてもいない公募で「選ばれた」なんて、多くの人が観る番組で言うでしょうか。 堀ちゃん自身、選ばれたと思ったからそう発言したのでしょう。 でも、実際に選ばれた人は他にいるのです。 辻褄が合いません。 その前に、そもそも、どの中学校の校章なのでしょうか。 この事実関係をまず、追っていきましょう。 2.どの中学校の校章なのか どこの中学校の校章なのか。 それは、岐阜市立岐阜清流中学校の校章です。 この中学校は、岐阜市の小中学校再編で、旧明郷中学校の校舎を利用して設置され、2012年度より開校しました。 とても新しい中学校です。 岐阜清流中は、岐阜市の中心部を東西に流れる清流・長良川より北部に位置し、同時に設置、開校(新校舎建設)された岐阜市立岐阜中央中学校は、長良川より南部に位置します。 再編により閉校された中学校(堀ちゃんの出身校)の跡地には、岐阜県の福祉施設が建設されています。 (岐阜市出身の大学の友達談) 堀ちゃんは、1996年10月生まれです。 中学生は13歳から15歳の間です。 つまり、堀ちゃんが中学生だったのは、2009年から2011年の間です。 ということは、堀ちゃんは、再編によって閉校された中学校最後の卒業生ということです。 岐阜清流中の校章デザイン案の公募は、2011年の上半期に実施され、校章が決定しました。 つまり、堀ちゃんが中学3年生のときです。 繰り返しますが、実際の校章をデザインした人物はは他にいます。 もちろん一人です。 もちろん、堀ちゃんが公募に応募した証拠もあります。 まとめると以下のようになります。 堀ちゃんは中学3年生の時に、来年度開校する新しい中学校(岐阜清流中)の校章デザイン案の公募に応募し、優秀作品に選ばれたという客観的事実がわかります。 堀ちゃんに、絵心が無いことは、ファンの間では有名です。 だから、堀ちゃんにデザインなんて出来るのか、そもそも公募に自ら応募したいと考えるのか、などの疑問が沸き上がるのは当然かもしれません。 しかし、岐阜市はこの公募を行うときにどんなことを考えるでしょうか。 その辺のよく分からない大人の案よりも、これから岐阜清流中に進学する予定の小学生や閉校になる中学の生徒に、案を応募してもらいたいと考えるのが自然だと思います。 (当初から公募対象が小中学生だった可能性もあります) ということは、多分担任の先生を通じて公募に関するチラシなどを学校で全員(堀ちゃん含め)が受け取ったと想像できます。 そして、記念に応募してみようか、と考えてもおかしくはありません。 3.「選ばれた」の意味 堀ちゃんは、番組で「選ばれた」とは発言するものの、「採用された」とは発言していません。 だいたいの意味は同じです。 しかし、もし堀ちゃんがこの2つの言葉を、明確に使い分けていたら、話が変わってきます。 しかし、これまでの情報だけだと無理やり擁護感が否めないと思います。 それに、そもそもこの公募はある一人が作ったひとつの最優秀作品を、校章デザインにしています。 デザインの一部が校章デザインに盛り込まれる、ということはありません。 4.「755」での釈明 乃木坂46のメンバーも使用しているSNS 「755」で、堀ちゃんは番組後、ある"釈明投稿"をしたそうです。 ただし、その投稿をみたというファンによるネット上の書き込みでしか確認できず、その投稿の存在真偽は、僕にはわかりかねます。 しかし、その投稿が事実だとして話を進めます。 堀ちゃんは、755で 「校章デザインは、複数人によるデザイン案を合わせて出来た(意訳)」と釈明したそうです。 でも、 この内容も事実ではありません。 先述したように、一人のデザイン案をそのまま校章デザインに採用しています。 ここで、次に向けておさらいします。 公募に応募してから約8年経っています。 僕も同じくらいの歳ですが、中3のころの記憶を鮮明に蘇らせることは難しいです。 しかし、 自らが応募した、しかも自分のデザインが中学校の校章になるかもしれない公募の結果を、全く関心がなく覚えていない、なんてことは普通あり得ません。 研究生なのにいきなりセンターを任される経験をしても、です。 堀ちゃんも確かに、公募の結果を見ていると思います。 もしかしたら、優秀作品受賞という結果がクラス内で話題になったかもしれません。 少なくとも、校章になったものが自分が全て考えたデザイン案ではないことは理解しているはずです。 ここで、改めて番組での発言のひとつを振り返りましょう。 番組司会のバナナマン・設楽さんの質問にこう答えています。 「岐阜が清流の街なんですよ。 そこから基づいていろいろデザインして出したら選ばれて」 そして、実際の岐阜清流中の校章をみてみましょう。 僕、最初にこの校章のデザインの意味を知ったときに、良くできているな~と感心しました。 良くできていると思いません?すごいと思います。 堀ちゃんは、清流の街・岐阜に基づいてデザインを考えた、と発言しています。 そして、実際に校章にも清流・長良川に基づいたデザインがあります。 何が言いたいかというと 堀ちゃんは、「優秀作品」に選ばれたという事実と、正式に決定した校章デザインの中に、自分のデザインしたものと非常に似ているものがある、ということを組み合わせて、「複数人のデザインを合わせて校章が出来た」という釈明を行った ということです。 要は 勘違いです。 ただ、勘違いだと認定すると、先程「そんな重要なこと忘れるわけない」と書いたことと矛盾します。 といっても、応募から約8年経っています。 堀ちゃんの頭の中で、「応募の中から校章デザインが決定したことを伝える記事の中に、自分の名前があった」ことと「自分が考えたデザインと似たデザインが一部存在する案が採用されていた」ことの記憶だけが断片的に残っていたとしたら、 「自分も含めた複数人のデザインを合わせて校章が出来た」という、事実と異なる記憶が新たに作られてもおかしくはないと思います。 よって、先述したような「使い分け」がうまれたのではないか、と僕は考えます。 さらに言えば、この発言がうまれた『乃木坂工事中』は、バラエティー番組です。 「公募」の話をしているなかで、しかも、山手線新駅名の公募の話の途中で、思い出したように校章の話をしていることもうかがえます。 バラエティー番組を盛り上げようと、話をしたのではないでしょうか。 僕やまとめサイトに書き込んでる連中よりも、堀ちゃんの方がスタジオの雰囲気だとかは理解しているはずです。 しかし、この発言で一番不利益を被ったのは、最優秀作品をデザインし校章に採用された作者本人です。 彼は、堀ちゃんの一連の発言を明確に否定しているそうです。 校章デザインの作者が、その彼一人であることは明確です。 堀ちゃんが、自らの発言が大きな影響力を持つことを自覚し、やはり他人が絡んでいることなので、「事実」をしっかり発信すべきだったことは確かです。 「完全に悪」でもなければ、「完全に良」でもないのでしょう。 この発言は、ネットニュースになりました。 それを信じて「みおながデザインした校章の中学とか最高」的なことをツイートするファンもいました。 そして、これをネタに、まとめサイトや匿名掲示板で、「堀は嘘つき」などと書き込む人、さらにはエスカレートして、堀ちゃんの人格までもを否定するような書き込みをする連中も現れています。 (ネットってそういう連中がわんさかいるところではあるけれども…) 今回の件をものすごく悪く言おうと思えば、それはできると思います。 ……堀ちゃんは、今僕が書いたこと全てをわかっている。 そして、相手(本来の校章デザイン作者)はただの一般人で自分の方が影響力があり、嘘をついてもバレないだろう、と思い発言した。 しかし、思ったより話題になり、事実がネットで暴かれたから、後付けの「言い訳」を755に投稿した……。 なんて風に。 もちろん、堀ちゃんの発言を明確に否定した作者に対して「お前が嘘つき」などの誹謗中傷は、あってはならない。 くらいでしょうか。 もし乃木オタで、これまで書いたことを知らない人がまわりにいるとしたら、是非、この記事を送りつけてください。

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乃木希典と同世代の軍人

乃木 1/46

今から100年前の1912年、処女航海に出たタイタニック号が大西洋で沈没し、ストックホルムで開かれた第5回オリンピックに日本が初めて参加したその年、日本では明治が終わり、大正が始まった。 7月30日崩御の明治天皇ご大喪の9月13日、日露戦争の旅順攻略で知られる陸軍大将・乃木希典 1849年生 は静子夫人と共に自刃。 当初、軍部によって情報の隠匿が謀られたが、「第一自分此の度御跡を追ひ奉り自殺候処恐入候儀其罪は不軽存候、…」に始まる遺書が公開されたことで「乃木将軍殉死」の報が日本中を駈け回り、様々な反響を巻き起こした。 大宅壮一は1963 昭和38 年よりサンケイ新聞で連載を始めた「炎は流れる」で次のように書いている。 「封建制度がほろびて、半世紀もたったとき、乃木希典という世界的に知られた将軍によって、夫妻ともに刃に伏するという世界史上にも類のない殉死がなされたのだから、劇的効果は満点であった。 これによって、明治とともに失われたと思われていた古い美しい日本が、日本人の心のなかにまだ生きていることが立証されたと思う人もあれば、歴史は逆回転を始めたと見る人もあったのだ。 」 わが国最初の雑誌とされる『西洋雑誌』は明治前年である1867 慶応3 年に創刊された。 CD-ROM「大宅壮一文庫創刊号コレクション」の明治編には149誌の創刊号が収録されている。 当時すでに雑誌は確立されたメディアであった。 ちなみに「創刊号コレクション」には明治45年の『武侠世界』『軍事画報』『有名無名』、大正元年の『婦人評論』『近代思想』『南方の花』『新文林』を収録している。 大宅壮一文庫「雑誌記事索引」の人名項目「乃木希典」を検索すると、乃木大将談「名士壮談 鉄拳でグニャリとなる様では駄目だ」 『冒険世界』1909年2月 という青年時代の教育を語った記事もあるが、殉死直後の記事を拾うと、大隈重信「乃木大将の殉死を論ず」 『新日本』1912年10月 、島村抱月「自殺と乃木大将夫妻」 『婦人評論』1912年10月1日 、『中央公論』1912年10月号では東條英教・新渡戸稲造や慶應義塾塾長の鎌田榮吉らによる「乃木大将の殉死を評す」という特集が組まれている。 この号には9月18日に青山斎場でおこなわれた将軍夫妻の葬儀に参列してかえったその晩に一気に書き上げた森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」も掲載されている。 「当時の日本の新聞が…将軍の死が発表された直後には、近代的・自由主義的な立場からの否定的な批判も相当あったのであるが、日がたつにつれて、肯定的・礼賛的意見が強くなり、まもなく無条件的讃嘆一色でぬりつぶされてしまった」 「炎は流れる」 将軍の死にだれよりも痛烈な批判を下した文学博士谷本富に対し「連日何百通という脅迫状がまいこみ」、当時京都帝国大学教授の地位にあった谷本は、このためにその地位を退かねばならなかった。 「乃木夫妻の殉死の動機やその是非善悪が、各方面で問題にされ、議論の対象となるにつれて、批判の批判もあらわれて、さらに世人の関心を呼び起こした。 著者は日本の学会が生んだ巨人、南方熊楠。 古今東西にわたる自殺の実例や解釈を並べた内容だが、前出の谷本博士を「死せる乃木大将をけなして生きたる東郷大将を揚ぐるなど、吾輩庸人にはできぬ芸当なり」とののしり、いかなる理由があれ自殺を奨励すべきでないとした法学博士浮田和民については「博士は近年避妊術の必要をとかるるとか、避妊術はキリスト教義に背かざるにや」と、キリスト教では自殺と避妊を禁じているのに産児制限を唱えたキリスト教系学者の痛いところをついている。 大宅壮一は乃木将軍の殉死から遡ること12年前の1900 明治33 年9月13日に、この世に生を受けている 蛇足だが遡ること200年前、1812年の9月14日にはナポレオン1世がモスクワに入城した。 「炎は流れる」の中で「年号が明治から大正に変わったとき、田舎の小学生だったわたくしは、とくに強く記憶に残るような感銘はなに一つ受けていない。 大きな黒ワクのついた新聞が来たこと、家々に「諒闇」と書いた提灯がつられたこと、着物に喪章をつけて学校の遙拝式に出たことをうすぼんやりと覚えているにすぎない」と回想している。 ここでは、大宅壮一文庫の雑誌記事索引の人名項目「乃木希典」279件 2012年8月調査 から主要なデータの紹介と、人名項目がある乃木大将と同時代の軍人の索引件数一覧を紹介した。 (敬称略) 大宅壮一雑誌記事索引 人名項目「乃木希典」より 2012年8月調査 タイトル 発言者 雑誌名 発効日 学習院長・乃木希典 日本及日本人 1907. 15 思想の系統上より見たる乃木大将 井上哲太郎 東亞の光 1912. 10 乃木大将の殉死を弔す 冒険世界 1912. 10 乃木大將の殉死を論ず 浮田和民 太陽 1912. 1 乃木将軍最后の月 押川春浪 武侠世界 1913. 7 乃木連隊の連隊旗を奪うの記 岩切信夫 話 1936. 1 乃木大將夫人の「母の訓」 末永勝介 文藝春秋 1962. 21 乃木将軍は軍神か愚將か 福田恆存 中央公論臨増歴史と人物 1970. 12 乃木大將夫人「母の訓」批判 富岡多恵子 文藝春秋デラックス 1974. 9 西郷が死んだときどこにいたか 栗原隆一 伝統と現代臨増 1977. 8 「謹厳」乃木希典が残していた「放蕩記」 奈良本辰也 新潮45 1985. 6 指揮官の責任 東條英機と乃木希典 山本七平 諸君 1987. 6 作家の日記 5回 森鴎外と乃木将軍の死、白樺派のことなど 松本清張 新潮45 1989. 5 遺書今昔物語 明治は逝った わしもいく 石川九楊 芸術新潮 2000. 12 言の葉のしずく 112回 乃木式 出久根達郎 諸君 2004. 12 日本海海戦と明治人の気概 乃木希典と日露戦争 小堀桂一郎 正論臨増 2004. 5 消える日本語 言葉とともに失われる日本人の魂 武士の情け 藤原正彦 文藝春秋 2005. 12 私が愛する日本 日本人の美学 庭に一本棗の木 関川夏央 文藝春秋臨増 2006. 乃木希典と同時代の軍人の索引件数一覧(特別編) 2012年8月調査 人物名 件数 乃木希典 279 東郷平八郎 152 山県有朋 146 秋山真之 87 山本権兵衛 86 児玉源太郎 71 鈴木貫太郎 63 秋山好古 50 広瀬武夫 48 大山巌 45 明石元二郎 38 寺内正毅 37 西郷従道 33 川上操六 22 福島安正 19 石光真清 16 樺山資紀 14 柴五郎 14 上原勇作 12 島村速雄 11.

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今から100年前の1912年、処女航海に出たタイタニック号が大西洋で沈没し、ストックホルムで開かれた第5回オリンピックに日本が初めて参加したその年、日本では明治が終わり、大正が始まった。 7月30日崩御の明治天皇ご大喪の9月13日、日露戦争の旅順攻略で知られる陸軍大将・乃木希典 1849年生 は静子夫人と共に自刃。 当初、軍部によって情報の隠匿が謀られたが、「第一自分此の度御跡を追ひ奉り自殺候処恐入候儀其罪は不軽存候、…」に始まる遺書が公開されたことで「乃木将軍殉死」の報が日本中を駈け回り、様々な反響を巻き起こした。 大宅壮一は1963 昭和38 年よりサンケイ新聞で連載を始めた「炎は流れる」で次のように書いている。 「封建制度がほろびて、半世紀もたったとき、乃木希典という世界的に知られた将軍によって、夫妻ともに刃に伏するという世界史上にも類のない殉死がなされたのだから、劇的効果は満点であった。 これによって、明治とともに失われたと思われていた古い美しい日本が、日本人の心のなかにまだ生きていることが立証されたと思う人もあれば、歴史は逆回転を始めたと見る人もあったのだ。 」 わが国最初の雑誌とされる『西洋雑誌』は明治前年である1867 慶応3 年に創刊された。 CD-ROM「大宅壮一文庫創刊号コレクション」の明治編には149誌の創刊号が収録されている。 当時すでに雑誌は確立されたメディアであった。 ちなみに「創刊号コレクション」には明治45年の『武侠世界』『軍事画報』『有名無名』、大正元年の『婦人評論』『近代思想』『南方の花』『新文林』を収録している。 大宅壮一文庫「雑誌記事索引」の人名項目「乃木希典」を検索すると、乃木大将談「名士壮談 鉄拳でグニャリとなる様では駄目だ」 『冒険世界』1909年2月 という青年時代の教育を語った記事もあるが、殉死直後の記事を拾うと、大隈重信「乃木大将の殉死を論ず」 『新日本』1912年10月 、島村抱月「自殺と乃木大将夫妻」 『婦人評論』1912年10月1日 、『中央公論』1912年10月号では東條英教・新渡戸稲造や慶應義塾塾長の鎌田榮吉らによる「乃木大将の殉死を評す」という特集が組まれている。 この号には9月18日に青山斎場でおこなわれた将軍夫妻の葬儀に参列してかえったその晩に一気に書き上げた森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」も掲載されている。 「当時の日本の新聞が…将軍の死が発表された直後には、近代的・自由主義的な立場からの否定的な批判も相当あったのであるが、日がたつにつれて、肯定的・礼賛的意見が強くなり、まもなく無条件的讃嘆一色でぬりつぶされてしまった」 「炎は流れる」 将軍の死にだれよりも痛烈な批判を下した文学博士谷本富に対し「連日何百通という脅迫状がまいこみ」、当時京都帝国大学教授の地位にあった谷本は、このためにその地位を退かねばならなかった。 「乃木夫妻の殉死の動機やその是非善悪が、各方面で問題にされ、議論の対象となるにつれて、批判の批判もあらわれて、さらに世人の関心を呼び起こした。 著者は日本の学会が生んだ巨人、南方熊楠。 古今東西にわたる自殺の実例や解釈を並べた内容だが、前出の谷本博士を「死せる乃木大将をけなして生きたる東郷大将を揚ぐるなど、吾輩庸人にはできぬ芸当なり」とののしり、いかなる理由があれ自殺を奨励すべきでないとした法学博士浮田和民については「博士は近年避妊術の必要をとかるるとか、避妊術はキリスト教義に背かざるにや」と、キリスト教では自殺と避妊を禁じているのに産児制限を唱えたキリスト教系学者の痛いところをついている。 大宅壮一は乃木将軍の殉死から遡ること12年前の1900 明治33 年9月13日に、この世に生を受けている 蛇足だが遡ること200年前、1812年の9月14日にはナポレオン1世がモスクワに入城した。 「炎は流れる」の中で「年号が明治から大正に変わったとき、田舎の小学生だったわたくしは、とくに強く記憶に残るような感銘はなに一つ受けていない。 大きな黒ワクのついた新聞が来たこと、家々に「諒闇」と書いた提灯がつられたこと、着物に喪章をつけて学校の遙拝式に出たことをうすぼんやりと覚えているにすぎない」と回想している。 ここでは、大宅壮一文庫の雑誌記事索引の人名項目「乃木希典」279件 2012年8月調査 から主要なデータの紹介と、人名項目がある乃木大将と同時代の軍人の索引件数一覧を紹介した。 (敬称略) 大宅壮一雑誌記事索引 人名項目「乃木希典」より 2012年8月調査 タイトル 発言者 雑誌名 発効日 学習院長・乃木希典 日本及日本人 1907. 15 思想の系統上より見たる乃木大将 井上哲太郎 東亞の光 1912. 10 乃木大将の殉死を弔す 冒険世界 1912. 10 乃木大將の殉死を論ず 浮田和民 太陽 1912. 1 乃木将軍最后の月 押川春浪 武侠世界 1913. 7 乃木連隊の連隊旗を奪うの記 岩切信夫 話 1936. 1 乃木大將夫人の「母の訓」 末永勝介 文藝春秋 1962. 21 乃木将軍は軍神か愚將か 福田恆存 中央公論臨増歴史と人物 1970. 12 乃木大將夫人「母の訓」批判 富岡多恵子 文藝春秋デラックス 1974. 9 西郷が死んだときどこにいたか 栗原隆一 伝統と現代臨増 1977. 8 「謹厳」乃木希典が残していた「放蕩記」 奈良本辰也 新潮45 1985. 6 指揮官の責任 東條英機と乃木希典 山本七平 諸君 1987. 6 作家の日記 5回 森鴎外と乃木将軍の死、白樺派のことなど 松本清張 新潮45 1989. 5 遺書今昔物語 明治は逝った わしもいく 石川九楊 芸術新潮 2000. 12 言の葉のしずく 112回 乃木式 出久根達郎 諸君 2004. 12 日本海海戦と明治人の気概 乃木希典と日露戦争 小堀桂一郎 正論臨増 2004. 5 消える日本語 言葉とともに失われる日本人の魂 武士の情け 藤原正彦 文藝春秋 2005. 12 私が愛する日本 日本人の美学 庭に一本棗の木 関川夏央 文藝春秋臨増 2006. 乃木希典と同時代の軍人の索引件数一覧(特別編) 2012年8月調査 人物名 件数 乃木希典 279 東郷平八郎 152 山県有朋 146 秋山真之 87 山本権兵衛 86 児玉源太郎 71 鈴木貫太郎 63 秋山好古 50 広瀬武夫 48 大山巌 45 明石元二郎 38 寺内正毅 37 西郷従道 33 川上操六 22 福島安正 19 石光真清 16 樺山資紀 14 柴五郎 14 上原勇作 12 島村速雄 11.

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