最初にMVを見た時、あまりのダンスの表現力と技術にびっくりしました! ちなみに、MVの振付を担当されたのは、かの有名なシルク・ド・ソレイユや、Siaの「アライヴ」で土屋太鳳さんが踊るダンスの振付も担当された 辻本和彦さん。 しかも、そんな経歴を持つ辻本さんが、なんと米津さんのダンスを絶賛しているんだそうです。 指先の繊細さと長い手足を活かしたダンスに「惚れ惚れするほど美しい」と、辻本さんがコメントもしています。 裏話ですが、米津さんはこの撮影のために2、3週間毎日レッスンを受けていて、激しい運動をするのは中学生ぶりだったらしく地獄の日々だったそうです。 笑 ただ、かっこいい映像を撮るために妥協はしない米津さんだからこそ、納得するまで諦めなかったそうで、撮影の最終段階で議論が白熱していたとか。 実際、ダンスの種類としては型にはまらないようなものなのですが、ジャンル的にはPOPやアニメーション、一部ブレイクのステップなどが取り入れられています。 特に、足を滑らせるムーンウォークの類のあの振りや、途中で自分の身体を制御できなくなるような勢いに押されたような振りは前衛的で、とても数週間で得た技術とは思えません。 曲もすごくて、ダンスもすごい・・・どうなってるんだ米津玄師…。 米津玄師「LOSER」歌詞の意味を考察! ちょっと熱くなりすぎましたが、ここからは「Loser」の歌詞の意味について考察していきたいと思います。 ちなみにこの曲、ノリの良いテンポとダンスの魅力が光る一方で、歌詞の意味が難解で良くわからないと言う声も聞きます。 そんな難解な歌詞も読み解きつつ、意味について掘り下げていきたいと思います。 いつもと同じ一人きりの帰り道。 どこかに行きたいのにどこにもいけない。 変えたいのに変えられない苦しみ。 米津玄師さん自身うつ病や一部障害を抱えていたことがあり 子供の頃にも味わっていた孤独や辛さが表現されているのかもしれません。 変えるには、逃げてしまえばいい。 明日へ逃げてしまえばいい。 目を閉じて暗闇に溶けてしまえば、明日は自然と踊りくるのだから。 とにかく逃げるために、ベッドで今日にさよならを告げるのです。 米津玄師「LOSER」Bメロ 歌詞の意味 歩き回ってやっとついた ここはどうだ楽園か? 過去の辛い経験を乗り越えて、歌手として道を歩んできてやっとここまで辿り着いた。 ファンもできて居場所もできて評価もされて、自分の道を定めることができた。 他人から見ればうらやまれるような成功を手にした立場であるはずなのに、なぜか疑問を抱きます。 「 ここは楽園か?今となっちゃもうわからない」 自分の音楽とは、作り出すべき音楽とは、求められる音楽とは・・・ 居場所が用意されている恵まれた状況を捨てたくなる、音楽をやめたくなる、全て捨てて遠くに行きたくなる・・・ 時にはそんなことも考えると言う米津玄師さん。 今に満足することができないのは、過去の経験があるからかもしれません。 どこまでいってもあの恐怖が迫り来るかもしれない。 また逃げたくなるかもしれない。 何が正解なのか、どうすれば自分に疑問を持たずに自信を溢れることができるのか・・・ 「四半世紀の結果出来た 青い顔のスーパースターが お腹すかしてはまってる」 当時米津玄師さんは25歳だったこともあり、自身のことを示しているようです。 青い顔のスーパースターはこの後の歌詞であきらかになりますが、 いわゆる ロック界の反逆者としての存在を比喩しています。 自分にも、そんな反逆者とも似た精神がどこかに残っていると歌う米津玄師さん。 喰われぬように、どう自分を動かすか、日々戦っているのかもしれません。 繰り返される「アイアムルーザー」と言う歌詞は、米津玄師さん自身の心の声のようです。 どこまでいっても自信など無い、自己肯定感の低さが自分をルーザーと呼ぶ意味なのでしょう。 ただ、自分には聞こえていたのです。 心のなかには伝えたいものがあることを。 子供時代に言いたかったことがここの目的語なのかもしれません。 ずっと、溢れては心の内に秘めていた想いを、たとえ負け犬の遠吠えに思われたっていいから もう言ってやろうぜ。 変えてやろうぜ。 そんな、彼自身を変えるような強い意志を感じるサビです。 世間は賛否両論。 彼の楽曲についても良くも悪くも様々な意見が飛び交って来ました。 彼自信を楽曲で展開する、と言うことは、ある意味彼自信を晒すことでもあります。 心に積もった塵もあるが、一歩引いた世界から見ればそんなものちっぽけなものです。 何万本売れたとか、そう言うことに重きをおいていない、 米津玄師さんの音楽に対する考え方と重なる部分があります。 1990年代にロック界で名を残し、2人とも20代で若くして亡くなりました。 イアンは、ライブ演奏時には人が変わったように痙攣するような動作をしたりとカルト的な一面があったよう。 死の直前には英チャート6位を記録しますが、精神状態がかなり不安定になっており 普段は落ち着いているにも関わらず突然激しい口調になったりしていました。 カートは、メジャーで最初のアルバムから大成功を収めるも、元々アングラな世界をルーツとしていた彼は、その成功をうまく受け止めることができず 精神を病んでいきます。 その後も思い通りの作曲ができず、うつ病、薬物依存に苦しみ、最後には自殺でこの世を去りました。 やはりどこか米津玄師さんに重なる部分が見受けられますね。 「彼らに中指を立ててももういない。 」 彼らは過去の人。 今賛否両論しても意味がない。 意味があるのは、ここから立ち上がるための教訓にすることだけだ。 この対象は、イアンとカートのことを言っているのでしょうか? それだけでは無い様な気がします。 「踊る阿呆に見る阿呆」「我らそれを端からわらう阿呆」 大衆受けする音楽問題。 ありますよね。 ミュージシャンとはきっといつの時代も、受けるか受けないか、作りたいか作りたくないか その狭間でひしめき合っているものだと思うのです。 作られた楽曲で踊り狂い好きに楽しむ大衆と、それを端から笑うのも阿呆だと。 提供側である自分たちのことを言っているのかもしれません。 結局そんな意志のひしめき合いは自意識の過剰が招いているのではないか。 そのせいで心をすり減らしたあとは、結局エゴでファイナライズするのです。 「酸っぱい葡萄」と言うのはイソップ童話の一つで、 お腹をすかせた1匹の狐が木の上になるよく実った葡萄を見つけて、 必死でジャンプするもどうしても届かなかった時「 あれはどうせ酸っぱいに違いない」といって取るのをやめる話です。 自分のものにしたくてもどうしても叶わないとき、人はその対象を価値のないものとして見直して、 心の平安を保つと言う話です。 この比喩を使うあたり、流石のチョイスですね・・・。 「前髪」と「前が見」で韻を踏んでいるところも面白いですね。 小さな悩みに囚われたり、評価を気にして一喜一憂しているうちに人生なんてフワッと消えちゃえる。 その繰り返しである。 と謳っています。 少し表現に前向きさが出てきています。 「愛されたいならそう言おうぜ」 今までの米津玄師さんであればこんな言葉を使ったでしょうか。 過去の米津さんを考えると、以前の彼からは浮かんでこない歌詞だったでしょう。 何か、変わらなくてはならない。 このままではいけない、と言う強い意志を感じます。 ここで出てくる「 永遠の淑女」とは、永遠の女性としても有名な、ベアトリーチェというイタリアの女性のことを指していると思われます。 特に 「LOSER」を作曲するきっかけとなったルーヴル美術館特別展にもかけているのでしょう。 前向きな歌詞を歌った後で、これです。 「ちょっとまった。 本当に大丈夫なのか?」と。 暗闇は心の何処かにあるものです。 心のストッパーは自分を守るために影に隠れて出番を待ち構えています。 しかし、ここでは更に強く言い返します。 わかっている。 自分はLOSER。 負け犬だ。 そんなことはわかっているけれど、知った上で、変わりたいんだ。 変わる必要があるんだ、と。 遠くから少しずつ聞こえる様になった音を、気持ちを、本性を、逃すな、と。 「アイオライト」ですが、宝石の名前の様で、「本質」といった意味合いがある様です。 ずっと探している彼の人生、音楽における本質はきっとどこかで出会えるはず。 一度見つけたら逃すな! といった覚悟が感じられます。 何も行動しなければ、いまにさよならだよ、と。 この歌詞ですが、歴史上の人物十返舎一九の 『 この世をば どりゃ おいとまに せん香の 煙とともに 灰左様なら』から引用されているようです。 「行動を起こさずうだうだしていると、線香の煙とともに灰になってしまうよ」と言う意味だそうです。 「ロスタイムのそのまた奥へ行け」 ロスタイムとはサッカーなどのスポーツの延長戦のことですが、ここでは人生のロスタイムの様に聞こえますね。 何もせずただ願うだけのLOSERでいたら、人生のロスタイムの先に行ってしまう。 このまま人生を無駄にしたいのか? そう警告しているかの様です。 感じてることがあるなら声に出さないと意味がない。 この声が聞こえてるなら返事をしてくれ! 過去の米津さんを打ち勝とうとしている歌詞が多くありましたが、 ここでは踊ってみようぜ、転がっていこうぜ、声出していこうぜ、と複数人に声をかけているかの様な歌詞になっています。 自分だけでなく、きっと米津さんのリスナーに向けたメッセージでもあるのではないでしょうか? 自分の音楽を聴いている人たちは、きっと自分に近い感覚を持っているだろうし 同じような人生を歩んできたかもしれない。 孤独に泣く夜もあるけれど、打ち勝っていこう、一人ではないのだから。 そんな風に勇気付けられているようです。 そして、ラスサビへ。 米津玄師「LOSER」歌詞の意味を考察 まとめ ここまで「LOSER」の歌詞を考察して来ましたが、いかがでしたでしょうか? やはり米津玄師さん自身の 心の声を描いた部分が多く見られましたね。 過去の苦しみ、乗り越えた自分、輝かしい現在の自分、見え隠れする逃げたい自分や自己肯定感の低さ・・。 正解を模索し続ける彼の人生とこれからの縮図を見せられたような気分になりました。 さて、ラスサビが終わったあとの米津玄師さんの表情。 気づきましたでしょうか? MV中一度も見せなかった、口角を少し上げた、ホッとした方なニヤリとしたような表情をしています。 この曲の歌詞にも出てくるように、LOSER、である自分を認めて変わっていく・・・ ある意味割り切って、 変わろうとしている米津玄師さん自身の感情を表していたのかもしれません。 彼は今後、どんな楽曲をどんな意味を込めて作っていくのか、どんな人生を描いていくのか・・・ 米津玄師さんのこれからの音楽を、そんな視点から見つめてみるのもいいかもしれません。
次の2016年9月28日に発売される米津玄師の新曲「LOSER」。 スポンサーリンク 米津玄師はその歌にどんな意味や想いを込めたのか、歌詞を分析して考えてみたい。 作詞:米津玄師 作曲:米津玄師 1番の歌詞について いつもどおりの通り独り こんな日々にもはや懲り懲り もうどこにも行けやしないのに 夢見ておやすみ いつでも僕らはこんな風に ぼんくらな夜に飽き飽き また踊り踊り出す明日に 出会うためにさよなら 今回のMVによって、米津は曲が書けて歌えるだけじゃなくて、踊ることもできる才能人であることがわかったが、それでも米津は常にどうしようもないくらいに孤独を抱えている人間なわけである。 その気になればチヤホヤされるような人生を歩むことだってできそうなはずなのに、どうしようもないほどの孤独感を抱えているからこそ、米津の歌詞は刺さるわけだし、同じような心を持った多くの人を魅了するわけである。 一人ではなく、独りという言葉でそれを表現するあたり、この歌詞にもそんな思いが色濃く滲んでいる。 でも、孤独な人だって本当は好きで孤独を選んでいるわけではない。 人と「合わせよう」とすることに疲れてしまうし、上手に「話の旨い人」を演じることができず、ゆえに過剰に相手のことを考えてしまい余計に上手く喋ることができないループに迷い込んでしまうからこそ、孤独になってしまう人はわりと多い。 だから、孤独である日々は懲り懲りなんだけど、かといって、どこにも行くことができずに結局は寝ることを選択するわけである。 ただ、米津はこの歌を自分と聴き手に対して向けた歌だと考え、かつ孤独である人たちのための歌であると考えているからこそ、歌の人称は「僕ら」という複数形を使うのである。 でも、そんな孤独な夜のことをぼんくらな夜と形容しており、今と違う未来を切望していることがひしひしと伝わる。 その決意のバトンは、次のフレーズに紡がれていく。 歩き回ってやっとついた ここはどうだ楽園か? 今となっちゃもうわからない 四半世紀の結果出来た 青い顔のスーパースターがお腹空かしては待ってる 孤独に夜の通りにいた主人公ができることは歩くことのみだった。 で、歩き続けた果てに新しい場所に出たのだろう。 ちなみに四半世紀とは25年のことであり、米津は今25歳なので、ぴったりとリンクするのである。 ということは、青い顔のスーパースター=米津ということだろうか。 この辺りのフレーズは、音楽だけを信じて色々と活動を続けてきて、それなりにたくさんの人に聴いてもらえるようになったけども、いま行き着いた場所(地位)は楽園だろうかと自問をしている米津自身の姿が見え隠れしているように感じた。 今の場所や地位が正しいかどうかはわからないけれども、正しいことを信じて待っているように見えるわけだ。 アイムアルーザー どうせだったら遠吠えだっていいだろう もう一回 もう一回行こうぜ 僕らの声 アイムアルーザー ずっと前から聞こえてた いつか ポケットに隠した声が 傍目からみたら勝ち組見える米津は自分のことをルーザー=負け犬と称する。 犬だから次に「遠吠え」というフレーズが出るわけだが、自分が歌うことを「遠吠え」と表現しちゃうのは日本でも米津くらいではなかろうか。 「僕ら」というのは米津と聴き手を含めているからと考えることができるわけだが、負け犬にしておくのは自分だけで十分だということだろうか。 もっと言えば、この歌を聴いているあなたたちは負け犬でないよ、としっかり線引きしていることだろう。 俺は負け犬だけど、みんなは違うから大丈夫だよ、と言わんばかりに。 スポンサーリンク 2番の歌詞について ああだのこうだの知ったもんか 幸先の空は悪天候 ほら窓から覗いた摩天楼からすりゃ塵のよう イアンもカートも昔の人よ 中指立ててもしょうがないの 今勝ち上がるためのお勉強 朗らかな表情 幸先とは前兆とか事を始める際の何か感じることとかそういう意味になる。 要はもう一回行こうぜと決意を新たにしたはずなのに、いきなり空は悪天候で何か悪いことが起きそうと予感するわけである。 摩天楼=天に届かんばかりの高い建物、つまり人生の比喩みたいなものであろう。 そういう広い視野からみれば、そんな悪天候なんて塵のように大したことないはずだと公言するわけである。 カートはたぶんカート・コバーンのことだと思うが、イアンという名の有名ロッカーはわりと多い。 孤独ということとリンクすることを考えれば、イアン・カーティスのように思われるが。 まあ、いずれにせよロックのレジェンドの名前をあげていることは間違いないのだが、その人たちは孤独から這い上がり、有名になってお金を稼ぐことになった人たちで、いま本気で孤独な人からすれば「中指をたてる」存在なのかもしれない(人によると思うけど)。 まあ、成功した人を妬むのではなく、朗らかな表情で自分なりの努力していこうよ、と言っているのではなかろうか、この片のフレーズは。 踊る阿呆に見る阿呆 我らそれを傍から笑う阿呆 デカイ自意識抱えこんではもう 磨耗 すり減って残る酸っぱい葡萄 膝抱えてもなんもねえ ほら長い前髪で前が見えねえ 笑っちまうねパッと沸き立って フワッと消えちゃえるこんな輪廻 理由は簡単でみんな阿呆なのであり、「賢い人」なんていないと米津は言っている。 阿呆に見える人を阿呆と思っている自分だって阿呆なんだよ。 それなら阿呆を受け入れて行動起こす人間が勝ちじゃんというわけだ。 自意識をデカくして磨耗して、酸っぱい葡萄みたいになるのは間抜けだともいうわけである。 膝かかえて行動しないでいたら、輪廻なんて消えちゃうよというわけである。 簡潔にいえば、細かいことなんて気にせずどんどんと行動しようぜ、という話。 だって、君たちは負け犬じゃないんだから、と。 愛されたいならそう言おうぜ 思ってるだけじゃ伝わらないね 永遠の淑女もそっぽ向いて 天国は遠く向こうのほうへ ああわかってるって 深く転がる 俺は負け犬 ただどこでもいいから遠くへ行きたいんだ それだけなんだ ただ孤独を嘆くのではなく、孤独が嫌ならばせめて「愛されたい」と周りにメッセージを放つことが大事だという米津。 思っているだけじゃ伝わらないというのはあまりにも的確な叱咤ではなかろうか。 淑女とは品位のある女性、いわば女神みたいなもんという感じ。 そんな人ですら、黙っていればそっぽ向いちゃうし、天国だって遠くの方にいってしまうと言っている。 これほどまでに頭でっかちで行動しない人に対してお説教をくらわすなんてすごい。 おそらくは負け犬である俺だって行動したら、「それなり」になれたのだから、負け犬ではないみんななら、もっと上を目指せるよという話なのだと思う。 ただし、負け犬だって負け犬なりに「動いた」からこそここまで来れたわけであり、それは「転がる」という無様な動きであろうとも、動くことを続けてきたがゆえの結果なわけだ。 とにかく「動く」ことがなによりも大事なんだとここで力説するわけである。 Cメロ~大サビについて 耳をすませ遠くで今 響きだした音を逃すな 呼吸を整えて いつかは出会えるはずの 黄金の色したアイオライトを きっと掴んで離すな アイオライトとは天然石のことである。 まあ、これはひとつの比喩であり、希望とか夢とか愛とかの例えなのであろう。 (黄金という修飾語が付いているわけだし) みんなも、きっとそういうものに出会えるはずだ。 だから、出会ったら絶対にそれを離すなよ、というわけである。 アイムアルーザー なんもないならどうなったっていいだろう うだうだしてフラフラしていちゃ 今に 灰 左様なあ アイムアルーザー きっといつかって願うまま 進め ロスタイムのそのまた奥へ行け 今が人生のロスタイムだとしてもいいじゃないか。 うだうだしてフラフラしているだけなら灰になる(要は死んでしまう)だけなのだから、願いながら行動しようぜという話である。 愛されたいならそう言おうぜ 思ってるだけじゃ伝わらないね 永遠の淑女もそっぽ向いて 天国は遠く向こうのほうへ ここいらでひとつ踊ってみようぜ 夜が明けるまで転がっていこうぜ 聞こえてんなら声出していこうぜ どう「動けば」いいのかわからないなら、せめて「踊ろう」というわけである。 身体を動かすことがまずはなによりも大事なことであり、自身を負け犬だと自称する米津だからこそ「行動できない人」の悩みとか苦悩とかがわかっており、逆に言えば、身体を動かすことの大切さもなおのことよくわかっているから、それを勧めるわけだ。 声もだせたらなおよし、といっている。 アイムアルーザー どうせだったら遠吠えだっていいだろう もう一回もう一回行こうぜ 僕らの声 アイムアルーザー ずっと前から聞こえてた いつかポケットに隠した声が ここいらでひとつ踊ってみようぜ 夜が明けるまで転がっていこうぜ 聞こえてんなら声出していこうぜ ポケットに隠した声とは胸の中にしまった己の夢に対する本音というふうにも解釈できる。 それはずっと前から聞こえてたはずで、本当は自分がどのように「動きたい」かもわかっているはずだというわけである。 綺麗に動く必要はない。 最初は転がるくらいでもいいじゃないか。 動こうよ。 できれば、声も出しながら。 そしたら、ただの孤独なだけの人生に光は指すから。 負け犬の俺に少しは光が差したように。 君の人生に光は必ず指すから。 米津は聴き手と本気で向き合いたいと思っているからこそ、ここまで辛辣な言葉を並べているのだと思う。 やったことのないダンスにチャレンジしたのも、そういう理由からなのかもしれない。 ハチっぽいサウンドにしたのも、米津の過去(孤独な過去)を少しでも意識させるような作りにしたかったからなのかもしれない。 関連記事: 関連記事: スポンサーリンク.
次のもっと噛み砕いて言えば『負け犬』です。 LOSERの主人公は音楽で成功した有名なミュージシャン。 昔から変わりたいと願い続け、夢を叶えました。 しかし主人公の心は晴れず、悶々とした日常を送っています。 ある時、自分の『本当の願い』に気付きます。 同時に自分は成功者に見えるだけの『負け犬』だと実感しました。 LOSERは「一度は負け犬となった主人公が、もう一度夢を叶えるために進み続ける」というストーリーの曲です。 『LOSER』のテーマ LOSERは米津玄師さんの内面を表現した曲と言えます。 米津さんは「どこでもいいから遠くに行きたいという感覚が昔からずっと強くあった」と語っています。 以下は米津さんがLOSER発表時のインタビューで語った内容です。 「何もかもイヤだから、もうなんでもかんでもやってやろうっていう、自暴自棄みたいな感じになってるところがあって。 」 アーティスト・米津玄師のネガティブな一面が垣間見えるインタビューですね。 米津さんは作曲・ボカロ・イラスト製作など、次々と新しいことにチャレンジしてきました。 MVでダンスを踊っているのは米津玄師さん自身。 もともとダンスに興味があったらしく、LOSERのMV製作でチャレンジしたそう。 LOSERは曲調もラップ調で、米津さんには珍しいです。 これは「ヒップホップみたいなニュアンスを取り入れたいと思った」と語っています。 しかしその挑戦は決してポジティブな意味ではなく、むしろネガティブな一面から湧き上がったもの……。 これは複雑な心境ですね。 ただ自暴自棄にならず、変わり続ける為に新しいことをする。 LOSERは米津玄師さんの感じている事を真っ直ぐ表現した曲と言えるでしょう。 変わりたいと願い続けたが、実際に変わったあとも心が晴れない。 そんな自分を、勝ち組に見えるだけのただの負け犬と自虐しています。 無くなったように思えた願いは、実は心の奥にしまいこまれていただけ。 今になってまた響き出します。 自分は負け犬だと痛感しても、人生を投げません。 「どうせ負けならもう一度挑戦しよう」と決意します。 ここまでで主人公の姿が描かれました。 愛されたいならそう言おうぜ 思ってるだけじゃ伝わらないね 永遠の淑女もそっぽ向いて 天国は遠く向こうのほうへ ここいらでひとつ踊ってみようぜ 夜が明けるまで転がっていこうぜ 聞こえてんなら声出していこうぜ loserのラストであるこの部分。 ここに伝えたいことの全てが詰め込まれています。 負けて諦めたら、そこで終わり。 「諦めたらそこで試合終了」という有名な言葉があるように、諦めない限り負け犬にはならない。 今は負けでも諦めずに進めばいい。 やりたいことをやろう。 いつか叶うと願うのなら、そのまま願い続けよう。 今の状況から抜け出すまで、願うままに動き続けよう。 loserにはこういうメッセージが込めらています。 最後に 以上、LOSERの歌詞解釈でした。 一度は敗者となった主人公が再び立ち上がる……まるで少年マンガのような熱さです。 私には負け犬となった主人公が、再び摩天楼を目指して昇り始める姿が目に浮かびました。 LOSERのMVを見たときは、本職のダンサーかと思いました。 それくらいウマかったので、米津玄師さんと知って大変ビックリしました。 インタビューも含めて興味深い曲です。
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