夏目 漱石 三 部 作。 夏目漱石|近代日本の文学,近代的自我

【夏目漱石】『三四郎』のあらすじ・内容解説・感想|名言付き|純文学のすゝめ

夏目 漱石 三 部 作

役所で働く野中宗助は、妻の御米とともに極力外界とのを控え、ひっそりとした生活で満足している。 満足しなければいけないと自分たちに言い聞かせている。 仕事も憂鬱だが、目下、急を要する困りごととしては、の小六の学費をどうするか、ということであった。 金はない。 仕事で各地を転々としているうち、亡くなった父の遺産である実家は、山っ気のある叔父の佐伯のもとで空費され、その叔父の家に厄介になっていた小六は、叔父の死とともに今後の学費が出せない旨を叔母から言い渡されたのだった。 小六にせっつかれながら、日頃の仕事の疲れもあり、宗助はなかなかこの問題を片付けられない。 やがて、小六を家に同居させ倹約しつつ、鰹漁の船に発動機を取り付けるビジネスを始めようという叔父の息子・安之助からも幾らか出させ、学費を捻出しようと宗助は考える。 しかし気苦労のためか、今度は御米が体調を崩して寝込む。 御米は過去に三度、妊娠出産に失敗している。 それが余計に宗助と自分の過去の罪への意識を助長している。 かつて、既に御米と内縁の夫婦だった宗助の友人、安井。 宗助と御米は彼を裏切り、夫婦になったのだった。 ふとしたことから大家の坂井と懇意になった宗助は、坂井から小六を書生として寄こしてはどうかと相談される。 小六の件に見通しが立って安堵する宗助だったが、蒙古をうろついているという坂井の弟が、現地での友人で安井という者を伴って遊びに来るという話を聞いて驚愕する。 救いを求めた宗助は、役所を休み、単身鎌倉に向かって禅寺で参禅する。 親切な禅僧はアドをしてくれるが、悟りは得られず、ほどなく彼は帰宅した。 その間に坂井の弟と安井は蒙古に戻り、小六は自力で安之助からの援助を取り付けていた。 知らないうちに春の兆しが来ていた。 御米はそれを喜ぶが、宗助の脳裏には、既に次の冬が思われていた。 感想 先日の『それから』の感想()で、『』と比較して「暗さを帯びた雰囲気」と書いた。 『それから』は、代助がから脱して職業を探し出すところで終わっているが、これに対し、宗助は役所勤めというこの上なくしっかりとした仕事に就いていて、日曜日だけが楽しみという、まるで現代のサラリーマンのような心境に至っている。 お金について叔父の家と若干トラブルを抱えているようだし、それに関連して弟の小六の学費をどうするかという問題も抱えているが、激烈な悩みというほどでもない。 だから毎日の暮らしは、仕事場に行って帰ってくるのと同じ程度に平坦である。 しかしそれはあくまでも前景であって、宗助と御米の足下にあるのは、『それから』のクライマックスとほぼ同じ、かつて友人を裏切った上での今の暮らしである、という意識である。 そのことが読み続けるうち徐々に姿を現していく様は、暗いとかではなく、もう怖かった。 そこから振り返ってみれば、淡々とした夫婦の日常もまた、不安で不気味なものにも思える。 そうした不安は、大家である坂井の家に、坂井の弟と一緒に安井という男が来る、という話が出たところで頂点に達する。 しかし、宗助はそれを御米には言えない。 宗助はいっそのこと、万事を御米に打ち明けて、共に苦しみを分って貰おうかと思った。 「御米、御米」と二声呼んだ。 御米はすぐ枕元へ来て、上から覗込むように宗助を見た。 宗助は夜具の襟から顔を全く出した。 次の間の灯が御米の頬を半分照らしていた。 「熱い湯を一杯貰おう」 宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、嘘を吐いてごまかした。 このところに、例え同じ罪を共有する(だろう)妻であっても、肝心なところで他人としてしか向き合えない宗助の寂しさがあると感じて薄ら寒かった。 御米は、安井を裏切った頃はいざ知らず、小説の中では、美禰子や三千代らと同列とは考えにくい、意気の弱い女性として描かれている。 ここに至って宗助は禅にすがることを思いつき、物語はようやく「門」らしくなる。 結果は思わしくはないが、この禅寺でのシーンは、それほど長い分量ではないもののなかなか印象的である。 私は大学生の頃、人に誘われて座禅サークルなるものに2、3度参加したことがあるのだが、そのとき座禅ビギナーだった私が感じた座禅への半信半疑な感じが、宗助の座禅する描写にもよく表れていて面白いと思った。 作中に出てくる座禅に関する本を調べてみたら、『碧巌録』というのはにもなっているようだ。 結局、宗助は何も能動的に動くことなく(禅寺には行ったが、それが能動的と言えるだろうか)物語は終わる。 坂井の家で安井と鉢合わせしていたらどうなっただろう、という思いはあるが、何も変わらなかったのではないか、というようにも考える。 そう考えさせられるほど、宗助は倦怠しているように思われた。 『』『それから』と本作が、なぜ3部作と呼ばれるか、改めて少し考えてみる。 1つには、男が年齢を経るごとに変化していく精神の在り方を捉えたものだから、というのはどうだろう。 あるいは、引き裂かれた恋情の過去・現在・未来を描いたものだから、というのも言えなくはない。 依然として私には『』と他2作とのギャップがあるように思えるが、一応、納得はいくような気はしてきた。 ちなみにの3部作としては、後期3部作というのもあるとのこと(『』『行人』『こころ』)。 『こころ』は高校の頃に夏休みの課題で読んだが、あと2冊もそのうち手に取ることになるだろう。

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樋口一葉・たけくらべ、夏目漱石、森鴎外 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 : 夏目漱石

夏目 漱石 三 部 作

「三四郎」「それから」「門」は初期三部作と言われるものですね。 いずれも恋愛による苦悩がテーマだと思います。 本当に簡単に説明しますね。 「三四郎」は、インテリの男子学生の当時のフェミニスト的な女性への片想いのお話です。 「それから」は、主人公の男と、その友人、その妻の三角関係のお話です。 「門」は、不倫の末に、結婚した夫婦のその後のお話です。 すでにお読みになった作品の、単語などが難しいと感じたのであれば、他の作品も同様に感じると思いますが、 でも、文章の前後でなんとなく意味がつかめたりするものではないですか? 私は、漱石は、小学校高学年から中学生にかけて読んだので、意味のわからない単語、読めない漢字だらけでしたが、 それでも、彼の文章のトリコになって夢中で、わからないながらにも自分の感覚で楽しんでいました。 お読みになった「坊ちゃん」は、漱石の作品の中でも、一番読みやすく、おもしろくなかったですか? 私は、漱石の作品はこれを一番先に読んだのですが、声を出してゲラゲラ笑って読みました。 そして、「夏目漱石っておもしろい!」これが最初の感想でした。 そう思った私が次に読んだのが、 「こころ」でした。 これを読んでびっくりしました。 「坊ちゃん」とはまるで違う作品。 私は、ガツーンと殴られたような衝撃を感じました。 初期三部作もよいですが、 後期三部作のひとつである「こころ」もぜひお読みなってください。 A ベストアンサー 別に決まりはないし気の向くままで良いと思いますが。 漱石全集ではこういう順序になってます。 iwanami. まず全集の1、2を読んであとは好きなやつでいいのでは。 図書館や古書店にあると思います。 全集は旧かな旧字体(繁体)ですが細かく註が付いています。 旧かながまだ早ければ文庫版などで。 別に決まりはないし気の向くままで良いと思いますが。 漱石全集ではこういう順序になってます。 iwanami. A ベストアンサー イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、 狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。 つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の 体系です。 一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を イデオロギ-と言うんです。 例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。 だから賛成や反対といった意見が出てきますね。 しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。 イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。 例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに 組織されています。 つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。 しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して 公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。 ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。 一応これは一つの例ですけど。 というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。 こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。 この説明で理解してくれると思いますけどね。 イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、 狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。 つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の 体系です。 一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を イデオロギ-と言うんです。 例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。 だから賛成や反対といった意見が出てきますね。 しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。 イデオ... Q 内田百閒に『漱石先生雑記帖』という本があります。 他の本にも収められているのかもしれませんが、この中にある『「百鬼園日記帖」より』に『虞美人草』について次のようなことが書かれています。 抜粋 ・篇中で一番優待せられてゐる甲野が非常に浅薄できざな人格だといふ事。 いやにむつちりして思はせ振りな哲学者気取りが鼻につく。 ・宗近もいけない。 あんな人格は小野さんでなくても軽蔑する。 いや味のなささうないや味だらけだ。 ・先生が善玉として描いた二人ともが今の心で読めばまるで贋物であるには驚く。 ・小野丈が真面目な人格に、書くときの先生の予期を裏切つて、人間らしく描かれてゐる。 小野のすることと云ふこと考へることは、大凡真面目で全人格的であるところが甲野よりも数等上の人格に見える。 ・虞美人艸は晩年先生が非常にきらつてゐたのを、ただぼんやり其文章技巧の点からだと思つてゐたけれど、漸く先生の心持がわかつた。 虞美人艸を書いた折はまだ先生も甲野をああいふ風に見る程度の人であつた。 う~ん、すごい斬り捨て方ですね。 でも、質問は、百閒の意見をどう思うかではありません。 漱石自身の文章で、そのようなものが残っているのでしょうか。 想像でかまわないのですが、回答者さんの考えるところを教えてください。 百閒が言うように、善玉を取り違えていたから、人物を見る目がなかったと後になって気づいた、からなのか。 それとも別の理由があるのか。 くわしい方のお考えをお聞かせください。 よろしくお願いします。 内田百閒に『漱石先生雑記帖』という本があります。 他の本にも収められているのかもしれませんが、この中にある『「百鬼園日記帖」より』に『虞美人草』について次のようなことが書かれています。 抜粋 ・篇中で一番優待せられてゐる甲野が非常に浅薄できざな人格だといふ事。 いやにむつちりして思はせ振りな哲学者気取りが鼻につく。 ・宗近もいけない。 あんな人格は小野さんでなくても軽蔑する。 いや味のなささうないや味だらけだ。 ・先生が善玉として描いた二人ともが今の心で読めばまるで贋物である... しかも、門下生のひとつの大きな特徴として、大家の取り巻きではなく、それぞれに人並み優れた個性と才能のもちぬしでした。 門下生筆頭とされる小宮豊隆はこう書いています。 「漱石は人を刺激する事にも妙を得てゐれば、人から刺激を受ける事にも妙を得てゐた。 是は漱石の頭脳が明敏で、相手の持つてゐる本質的な良いものを直ちに発見して、それが展開し得る可能性を尊敬する事が出来たせゐでもあるが、同時に漱石の頭が創造的で、他人の中の創造的な機能を活発に運転させるとともに、自分自身の創造への大きな刺激を受け取つた」(『夏目漱石』上 小宮豊隆 岩波文庫) 小宮らがそうした教師としての漱石に出会い、親炙したのに対して、岡山の中学時代、漱石の【ヨウ】虚集に心酔し、その作品を通して漱石に導かれていきます。 やがて習作の『老猫』を漱石に送り、 「筆ツキ真面目にて何の衒ふ所なくよろしく候」(明治四十二年八月二十四日付書簡) と返事をもらい、その二年後、長与胃腸病院に入院する漱石に初めて対面します。 大正二年から五年にかけて、百閒は漱石の著作の校正を任されます。 百閒の経済的困窮に対する漱石の配慮でもあったのですが、百閒はその期待に十分応える仕事をする。 漱石の死後、全集編纂の際には、校正の担当者として、『漱石校正文法』を体系化し、漱石の用語法・かなおくり法に法則を導入するのです。 同年代の芥川龍之介や久米正雄らは、ある意味で、漱石を足がかりとして、文壇へ出ていきます。 そうした彼らが脚光を浴びる傍らで、黙々と漱石の校正をしていたのが百閒でした。 安倍 内田さん何かありませんか。 たとへば夏目さんをどういふ人とあなたは見てをられるか……。 内田 どういふふうな人つて、私なんかには絶対的なものですね。 小宮 内田君はその点は実に純粋だ。 無条件に先生を崇拝してゐる。 内田 どうも、批判も何もありませんね。 小宮 それに較べると、僕なんかは生意気で不順で、悪いことした気がする。 安倍 君の態度だつて純粋だよ。 内田 僕なぞは口もきけなかつたやうなところがありますね。 小宮さんなんか、先生と対話ができましたからね……。 (笑) この中に、座談会のような席上で、漱石のことをあれこれ語りたくない、という百閒の拒否感が、それとなくうかがえるような気がします。 それくらい、百閒にとって漱石は「絶対的」な人だった。 質問者さんがあげられた百閒から見るところの『虞美人草』の問題点を、いちいち論評できるほど、私は百閒についても漱石や『虞美人草』についても、詳しいわけではありません。 ただ百閒と漱石の関係をこうやって見ていくならば、それは、漱石の発想から誰よりも詳しい人間がする批判、むしろ、後年の漱石自身の問題意識に限りなく近いものとして見ることができるのではないか、と思うのです。 そうした上で、再度質問者さんが『虞美人草』をお読みになり、考えていただければよいのではないか、百閒が投げかけた問題点は、そうしたものとしてあるのではないか、と思います。 以上、大変に長くなりました。 最後までおつきあいくださってどうもありがとうございます。 分かりにくい点、さらに詳しく知りたい部分などありましたら、補足要求お願いいたします。 なお、私自身は、一応文学研究の端くれに身を置こうとするものではありますが、漱石や日本文学の専門家でも何でもありません。 ただ、興味を持つ一般人であること、ある程度、文献には当たっていますが、正確さに関しては必ずしも保証の限りではないことをご理解ください。 しかも、門下生のひとつの大きな特徴として、大家の取り巻きではなく、それぞれに人並み優れた個性と才能のもちぬしでした。 門下生筆頭とされる小宮豊隆はこう書いています。 「漱石は人を刺激する事にも妙を得てゐれば、人から刺激を受ける事にも妙を得てゐた。 是は漱石の頭脳が明敏で、相手の持つてゐる本質的な良いものを直ちに発見して、それが展開し得る可能性を尊敬する事が出来たせゐ... A ベストアンサー 私は『こころ』しか読んだことがありません。 が、読みやすいとは思いましたが特になんの感想もありませんでした。 だからといって、つまらないというわけでもありません。 『吾輩は猫である』の奇抜な視点設定、『こころ』などでの主人公の深い心理描写。 評価できる点は多々あります。 けれど漱石に限らず、様々な小説はそれを読んでいる読者の年齢や心理状態によって、受ける印象も違えば理解できない場合もあります。 例えば、高校の教科書に『こころ』の遺書の部分が掲載されているのは謎。 高校生に漱石を読ませるなら、『夢十夜』など短編でいいと思います。 私の場合は『こころ』を大学生になってから読んだのですが、理解するには年齢も経験も足りないと感じました。 先生の心理も主人公の心理も「そういうもんなんだ」と感じただけでしたし。 ですから、今は「読んだ」という経験だけでいいと思いますよ。 数年後、改めて読んでみたら「おもしろい!」と感じることがあるかもしれませんし。 あと漱石の小説のおもしろさですが、自分の存在意義を見つめて掘り下げていくという点だと聞いたことがあります。 漱石は「望まれずに生まれた子」で、あまりいい幼少時代ではありませんでした。 故に、「自分はなぜ生まれ、なぜ生きるか」という疑問が常にあったのだと思います。 私は『こころ』しか読んだことがありません。 が、読みやすいとは思いましたが特になんの感想もありませんでした。 だからといって、つまらないというわけでもありません。 『吾輩は猫である』の奇抜な視点設定、『こころ』などでの主人公の深い心理描写。 評価できる点は多々あります。 けれど漱石に限らず、様々な小説はそれを読んでいる読者の年齢や心理状態によって、受ける印象も違えば理解できない場合もあります。 例えば、高校の教科書に『こころ』の遺書の部分が掲載されているのは謎。 高校生に漱...

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夏目漱石の作品は?三部作は?名言は?漱石流「月が綺麗ですね」とは?

夏目 漱石 三 部 作

修善寺の大患を経て強く意識された漱石の人間認識 前回触れたように、1910 明治43 年、漱石は43歳のとき『門』の執筆中に胃潰瘍を患い、療養のため訪れていた伊豆の修善寺温泉「菊屋旅館」で大量の吐血をして昏睡状態に陥り、30分ほど生死の境を彷徨います。 後に「修善寺の大患」と呼ばれるこの事件をきっかけに、漱石の中で「死すべきもの」としての人間という認識がはっきりと生まれてきます。 日本の近代を外発的なものと批評した「現代日本の開化」 「修善寺の大患」後の漱石はまず、知識人として日本近代を批評していきます。 1911 明治44年 、朝日新聞社が主催した講演「現代日本の開化」で日本近代をこのように切ります。 西洋の開化は内發的であつて、日本の現代の開化は外發的である。 こゝに内發的と云ふのは内から自然に出て發展すると云ふ意味で丁度花が開くやうにおのづから蕾が破れて花瓣が外に向ふのを云ひ、又外發的とは外からおつかぶさつた他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指した積なのです。 このように、漱石は日本の開化を「外発的」なものであると指摘しました。 そしてその後、冷静な人間認識を持つ知識人としての漱石の姿勢は、1912 明治45年 の『彼岸過迄』を皮切りに『行人』『こころ』『道草』『明暗』といった、「人間」を問う小説群へと繋がっていくことになります。 後期三部作 「修禅寺の大患」を境に、漱石の作品は個の自立やエゴイズムといったテーマに焦点を当てたとされる前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)とは大きく変化していきます。 いわゆる「後期三部作」と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こころ』の中では、近代の知性に対する疑念が見て取れます。 1911 明治44 年に文部省から文学博士号授与の連絡を受けるものの辞退、世間では賛否が紛糾することになります。 また、信頼する友人であり恩人の池辺三山の辞職と死、さらには娘ひな子の急死。 こうした出来事が漱石の作風に影響を及ぼしたであろうことは想像に難くありません。 そんな中、このように送り出された作品が1912 明治45 年の『彼岸過迄』。 その序文で漱石自身が 「 彼岸過迄 ひがんすぎまで」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は 空 むなしい 標題 みだしである。 かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を 持 じしていた。 が、ついそれを試みる機会もなくて 今日 こんにちまで過ぎたのであるから、もし自分の 手際 てぎわが許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。 と述べているように、複数の短編が合わさって一つの長編になるという構成をもつこの作品の中では、須永と従妹の千代子の恋愛を軸に近代知識人の深い苦悩が描き出されます。 『彼岸過迄』と『行人』の間に、明治天皇の崩御と乃木希典将軍の殉死という一大事件が発生しました。 この事件は漱石と同時代に活躍していたも森鴎外に大きな影響を与え、鴎外を歴史小説や史伝へと向かわせることとなるのですが、それはまた次回扱っていきたいと思います。 この事件は、鴎外だけでなく漱石にも大きな影響を及ぼします。 御 ご 大葬 たいそうの夜私は何時もの通り書斎に 坐 すわって、 相 あい 図 ず相図の 号砲 ごうほうを聞きました。 私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。 後で考えると、それが 乃木 のぎ 大 たい 将 しょう大将の永久に去った報知にもなっていたのです。 この「先生」の遺書にも直接触れられている通り、『こころ』という作品自体がこの事件の感動に大きく影響された作品でした。

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