明智光秀 煕子。 妻木煕子 明智光秀を愛し愛された糟糠の妻

【妻木煕子(明智煕子)とは】麒麟がくるで登場!!明智光秀の正室(妻)である彼女の生涯を徹底解説!

明智光秀 煕子

Contents• 明智光秀・煕子夫妻のラブラブエピソード 二人の結婚前のエピソードとして、煕子が婚約後に 疱瘡に感染し跡が残り、その美貌が損なわれる悲劇が襲いました。 婚約の破断を恐れた妻木宏忠は、煕子にそっくりな妹の芳子を身代わりに出すのですが、それを見破り外見を度外視し煕子と結婚したのです。 そんなエピソードがあったからこそ、煕子は光秀が斎藤家を出奔して無職となった時に、必死に支えたと思います。 浪人で無収入の光秀が連歌の会を主催する順番が回ってきたが、接待費の工面に困っていた所、煕子は自分の 美しい黒髪を切り落としそれを売って会の接待費を工面したそうです。 その計らいに光秀は感謝し、生涯を通して彼女への愛を貫き、側室や妾を抱える事はなかったそうです。 その連歌会は朝倉家との会合であり、その後10年間、 朝倉義景の下で仕えたので、煕子は朝倉家への再就職のキッカケを作った事にもなります。 そもそも光秀が朝倉家の家臣だった事が疑問視されていますが、ようするに煕子と光秀は相思相愛の中睦まじい夫婦だったと言事です。 妻木煕子が生まれた年 煕子が生まれたのは、 1530年と1534年の二つの説があります。 この二つは、 西教寺に残されている過去帳が 1530年と書かれている説と 明智軍記に書かれていたのが 1534年とされる説です。 これの間を取り、1530年代の前半に生まれたのは間違いないのではないかと考えられています。 もし、1534年生まれてですと、織田信長と同い年となります。 生まれは、明智家と同様に美濃守護である土岐氏の流れを汲む 妻木氏であることが考えられています。 彼女の名は、【 妻木煕子】や【 明智煕子】と呼ばれることが多いのですが、この時代に名字と名前を表現する女性は非常に珍しく、【 濃姫】や【 淀の方】のような名称を付けられていました。 彼女の娘である【 細川ガラシャ】が有名になるにつれて、名字と名前の表記が母にも定着したのではないかと考えられています。 以前までは、 お牧の方や伏屋姫と言う名ではないかと言う説がありましたが、麒麟がくるでも お牧は母親で、伏屋姫も別の女性説が有力となっているようです。 明智光秀と煕子の結婚 謎の多い半生の二人ですから、結婚時期も定かではありません。 光秀の常識的な性格と戦国期の慣例を照らし合わせれば、煕子が10代の内に婚姻関係を結んだのではないかと推測されます。 以前、光秀の記事に書いた通り、本能寺の変時点での光秀の年齢を55歳とすれば、2人の年齢差は5歳くらいなので、 煕子15歳、光秀21歳くらいの婚姻ではなかったのかなと思われます。 前田利家のように異例の年齢差であれば、何かしらの史料が残っていてもおかしくはないので、話題にならない程度に常識的に収まった婚姻関係と言えるでしょう。 結婚生活も、斎藤家を出奔、朝倉家に居候など世に出てくる1568年までは苦労した光秀をよく支え、冒頭で述べたような逸話が出る程の相思相愛ぶりを発揮していたようです。 二人は常に行動を共にしていたようですから、光秀の行動をたどれば煕子をたどることができるのではないのでしょうか? <スポンサーリンク> 織田信長の家臣時代 織田信長に仕えた光秀は、 1571年の比叡山焼き討ちの功で、近江坂本に領地を与えられ、煕子もそこに移り住みました。 1568年前後は、足利義昭を介しての信長との付き合いでしたが、1573年の【 槇島城の戦い】で足利義昭を京都から追い出した時点で、正式に取り立てられました。 【光秀と煕子の動き】• 1540〜1550年辺りに結婚• 1556年以前 美濃(斎藤家に仕える)• 1556年以降 美濃を追われて越前・朝倉氏の世話になる• 1568年 足利義昭を奉じて上洛• 1571年 近江坂本城に移り住む• 1576年に煕子の死亡説(1579年に生存の記述もあり)• 1582年本能寺の変 光秀は側室を設けなかったとありますが… 煕子を深く愛していた光秀は、側室を設けなかったと言われているのは、裏切者として書かれがちな彼の美徳として創作などでこの設定がなされていたことから始まります。 先述した、結婚前や黒髪のエピーソドなんかは、どれも軍紀ものや二次史料が出典であるために創作の可能性がとても高いのです。 しかし、当時の公卿・ 吉田兼見が記した一次史料『 兼見卿記』に注目すると、煕子のほかに複数の女性がいたのではないかと思わせる記述があります。 先日もブラック企業信長の記事でも触れましたが、 1576年に光秀は大坂を攻めている陣中で倒れてしまい生死をさまよいます。 筆者の吉田兼見は神職にもついていたので、彼が病気治癒の祈祷を担当しました。 兼見の祈祷の甲斐があって、光秀は無事快方に向かいまが、その同年には煕子も病に倒れたと書かれています。 この記述は、光秀の愛妻家ぶりを裏付けるものとして、好意的な文脈で採用されることが多いのですが、他の史料とこの記載に関連する内容を突き合わせていくと、興味深い内容が浮かんできます。 それは光秀には 2人以上の妻と側室が居たのではないかと言う説です。 それは、先ほど書いた煕子の死去についての記述です。 西教寺の『 過去帳』に次のような記載があります。 【 天正4年(1576年)11月7日に明智光秀室(妻)死去】 と書かれており、『 兼見卿記』では同年10月24日の時点で妻の病気が快方に向かっていることが述べられており、光秀が妻一筋であれば… 煕子は10月24日に快方に向かっている 兼見卿記 が、11月には死去しました。 過去帳 となるのです。 もし、10月に快方に向かって11月に死去しているのであれば、兼見卿記で死去について触れていないのはなんとも不可解なことです。 しかも、明智軍記によれば【 1579年当時の煕子は45歳だった。 】と言う記述もあります。 1576年に亡くなっているはずの煕子が、 1579年に生存していると明智軍紀には記されているのです。 この明智軍記に史料的価値があるかは疑問視するところですが、戦国時代当時、病状が急変して亡くなるのは珍しい事ではないのですが、もし2人以上の妻や側室が居たのなら上記の疑問がしっくりくると思います。 この説にはもう一つ根拠があり、光秀の子供である 三男四女が 明確に煕子の子である根拠がないと言う点です。 先ほど細川ガラシャが煕子の子供と言いましたが、彼女ですら煕子が母親と言う明確な証拠がないと言う事です。 明智家自体の家系図にも明らかな矛盾や混乱が含まれているとも指摘されていますようです。 ようするに、光秀が妻一筋だった可能性もあるのですが、戦国の習いで複数の妻を迎えていた可能性もあるのです。 本能寺への信長への逆臣があるために、光秀の評価は裏切者のイメージが多いのも事実ですが、時が流れるにつれて彼の評価も変化していきました。 光秀の人柄や能力にも注目が集まるようになり、その再評価に連動する形で 明智家の人々や妻・煕子にその焦点が集まってきました。 濃姫 帰蝶 以上に史料が乏しいうえに、裏切者の明智家の人物なのでその実情ははっきりしませんが、今後【 麒麟がくる】を見るうえでの参考になればと書かせてもらいました。

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明智光秀の愛妻煕子~あれ?実物は私たちの思ってるのとちょっとちがうかも?~

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織田信長を裏切って「本能寺の変」を引き起こした明智光秀は謀反人のイメージが定着していますよね。 ただ、近年は様々な研究から実は庶民に優しい政治を行っていた人物だったとする説もあり、大河ドラマ『麒麟がくる』でも元主君の斎藤道三が夢見た「大きな国」作りを目指す明智光秀が描かれ、理想を追求した人物であったとの見方も強まっていますね。 このように 明智光秀が理想を追求した人物として描かれるアニメ『へうげもの』 では、その明智光秀が死ぬ最後に詠んだ辞世の句のシーンが心を打ちます。 側室を持つことが当たり前の戦国時代にあって、煕子以外に妻を持たず仲睦まじい夫婦だったという明智光秀。 その妻・煕子との逸話も織り交ぜられた『へうげもの』での明智光秀の辞世の句のワンシーンをご紹介します。 画像をクリックすると無料で見られるサービスへ移動します 『へうげもの』とはどんなアニメなのか簡単に解説 『へうげもの』は、山田芳裕さん原作の漫画をアニメ化したもので、2011年にNHK BSプレミアムで放送されました。 主人公の古田 織部 おりべ(重然)は、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に使えた武将であり、同時に茶人として茶器などにも通じており「織部好み」という流行を生み出した文化人でもありました。 戦国時代の作品というと、やはり合戦に重点をおいて描くケースが多いですが、この『へうげもの』は文化人の古田織部が主人公ということからもわかる通り、茶器などの文化的な側面から戦国時代を描いた珍しい作品です。 この『へうげもの』は、茶の湯に精通し茶道具を収集するなど芸事に熱心な「 数奇者 すきしゃ」が大きなテーマになっていて、茶会や連歌会など開いて文化人としても名高い明智光秀も登場します。 今まで明智光秀は「本能寺の変」を引き起こした謀反人のイメージが定着していましたが、『へうげもの』では世の中を良くしたいと願う人物として描かれています。 大河ドラマ『麒麟がくる』が好きな人にもおすすめのアニメ 明智光秀が主人公の大河ドラマ『麒麟がくる』では、かつての主君・斎藤道三が夢見た「大きな国」を作りたいと願う人物として描かれていますね。 理想にむかって突き進む明智光秀の姿は、『へうげもの』で描かれる明智光秀のそれと通じるところがあります。 そんな理想の国作りを夢見た明智光秀が、なぜ「本能寺の変」を引き起こしてしまったのか? そのことは『麒麟がくる』でどのように描かれるか一番気になるところですが、『へうげもの』での明智光秀がそのヒントになるかもしれませんよ。 明智光秀が死ぬ最後に辞世の句を詠んだ『へうげもの』のシーンとその意味 理想の国作りを志して決起した「本能寺の変」 しかしその後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、逃げる途中で襲われて命を落とすことになります。 その死ぬ最後に言い残した明智光秀の辞世の句は、自身の半生と妻・煕子への思いが詰まった内容で心を打ちますよ。 『へうげもの』で明智光秀が死ぬ最後に詠んだ辞世の句「月さびよ・・」は松尾芭蕉の俳句 月さびよ 明智が妻の 咄 はなししせむ 『へうげもの』で明智光秀が詠んだこの辞世の句は、実は明智光秀が詠んだものではなく松尾芭蕉によるものです。 この俳句は、松尾芭蕉が奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣をした際、又幻と言う人の家に泊まった時、貧しいにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受けた芭蕉は感激して詠んだそうです。 この俳句には 『寂しい月明りのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう。 (あなたのその心掛けは、必ず報いられる日が来ますよ)』といった意味が込められているそうです。 これは明智光秀が織田信長に仕える前、貧しく不遇な生活を余儀なくされていた時代に妻の煕子に支えられた逸話が元になっています。 『へうげもの』では明智光秀と妻・煕子の髪にまつわる逸話を元にしている この松尾芭蕉の俳句は、明智光秀が出世する前の貧しかった時代のエピソードが元になっています。 それは一体どんなエピソードなのかご紹介します。 当時は「 汁事 しるごと」という各家が持ち回りで行う宴会の習慣があり、明智光秀にその順番が回ってきましたが、もてなす料理を用意できないほど貧しかったそうです。 そこで妻の煕子は、自分の長くて美しい髪をバッサリ切り、それを売ってお金を工面しました。 そしてそのお金を使って豪家な料理でもてなし、参加した人はみな満足してこの会は大成功に終わります。 妻の煕子は夫の光秀が恥をかかぬよう自分の大事な髪を切ってまでお金を工面して支え、光秀も煕子の思いに応えるように出世していったのです。 二人は固い絆で結ばれていたことがわかるエピソードですよね。 アニメ『へうげもの』の14話で放送 この明智光秀が辞世の句を詠んだエピソードはアニメ『へうげもの』の14話で描かれています。 理想の国作りを目指したものの、ついにその夢は叶わず力尽きようとする明智光秀。 その時ふと脳裏によぎったのは、貧しくつらい時も支えてくれた妻・煕子との思い出でした。 哀愁とともに詠まれたこの辞世の句のシーンは、史実とは違う『へうげもの』でのオリジナル表現ですが、明智光秀がどんな人物であったかを物語っていて心に残る名場面と言えますね。 明智光秀の本当の辞世の句 逆順二門無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来たれば 一元に帰す <作家:吉川英治の訳> たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。 彼も我もひとしき武門。 武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。 その大道は我が心源にあること。 知るものはやがて知ろう。 とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。 しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。 原文は漢詩で書かれており、「本能寺の変を正当化する意味がある」など解釈は様々です。 総じて無念さが滲み出ているように思えますね。 まとめ• 戦国武将の明智光秀が登場するアニメなら『へうげもの』がおすすめ。 理想の国作りを志した明智光秀の人物像は、大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀像と似ている。 『へうげもの』で明智光秀が遺した辞世の句は松尾芭蕉の俳句。 その辞世の句は明智光秀と妻・煕子の夫婦仲を示した逸話が元になっている。 明智光秀も登場するアニメ『へうげもの』を全話無料で見る方法があります!詳しくは下記の記事を御覧下さい。 ちなみに、『麒麟がくる』でも登場する松永久秀は、この『へうげもの』でも登場します。 松永久秀の壮絶な爆死の逸話を知るうえでも面白いので、気になった人は下記の記事も読んでみて下さい。

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妻木煕子| 明智光秀の妻の生涯~逸話から愛妻家説を検証する~

明智光秀 煕子

西教寺の墓所 生年不詳ながら、一説に3年()頃 [ ]、長女として生まれたといわれる。 『細川家記』よると、妻木勘解由左衛門範煕の女とあり 、細川忠興の室(細川ガラシャ)の母であることから、この所伝は信憑性が高いとされる。 夫婦仲は非常に良かったとされ、「結婚直前ににかかり、左頬にその後が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた」、「弘治2年(1556年)、光秀はでに与したため、道三の嫡男であるもののこれと対立したによってが落とされると、光秀は身重の煕子を背負ってへ逃亡した」などの逸話がある。 本拠を失い浪人した光秀は美濃から越前に移り、に仕えることになるが生活は苦しく、そのような中、連歌会の催しを光秀が担当することになった。 酒宴の用意に苦労する光秀をみかねた煕子は、自分の黒髪を売ることで費用を工面したと伝わる。 2年()にが門弟の山田又玄の邸宅でその妻に宛てて詠んだ句「月さびよ、明智が妻の、咄(はなし)せむ」はこの逸話にちなんだもので、芭蕉はを訪れた際にに伝わるこの逸話を聞いたと考えられる。 天正4年10月14日、煕子は病気になり、光秀は平癒のをに依頼している(『』)。 10月24日には平癒したので、非在軒という者が銀一枚を持参して礼に行っている。 11月2日には、吉田兼見が煕子の病気見舞のために光秀の京都の宿所に行き光秀と面会をしている。 天正4年11月7日(1576年11月27日) [ ]または6月7日(7月6日) [ ]に死去。 享年は46または36、42とも言う。 光秀が重病となった際の看病疲れが元で病死したという。 戒名は福月真祐大姉。 の明智氏、妻木氏の菩提寺であるに墓がある。 しかし、『』によると天正10年()の落城のときの言動を記し、年齢48歳で死去としているがこの説は信用できないとされている。 関連作品 [ ] テレビドラマ• (1973年、NHK大河ドラマ、演:)• (1987年、TBS、演:)• (1991年、テレビ朝日、演:)• (1996年、NHK大河ドラマ、演:)• (2005年、テレビ東京・新春ワイド時代劇、演:)• (2006年、NHK大河ドラマ、演:)• (2007年、フジテレビ、演:)• (2020年、NHK大河ドラマ、演:) 舞台• 本能寺オテロ(2008年2月14日 - 12月17日、K. Project、築地本願寺ブディストホール、演:) 歌舞伎• (ときはいまききょうのはたあげ。 通称「馬盥の光秀」(ばだらいのみつひで)。 5年()初演) 映画• (1960年、松竹、演:) TRPGリプレイ• (プレイヤー:) 小説• 『細川ガラシャ夫人』 主婦の友社 1975 のち新潮文庫 脚注 [ ] 注釈 [ ] [].

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