ペスト ルネサンス。 ヨーロッパの中世末期について

人類と感染症 1 「ペスト」発生源は中国か

ペスト ルネサンス

16世紀、メディチ家出身のレオ10世がローマ教皇に就任します。 彼はカトリック教会の総本山である「サン・ピエトロ大聖堂」を、ラファエロやミケランジェロといった、ルネサンスを代表する芸術家たちの作品で彩ろうと計画を進めていました。 中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配。 メディチ家による統治の下、15世紀には、ルネサンスの文化的な中心地となりました。 しかし、それには莫大な費用がかかります。 そこで、教皇は資金を集めるために「免罪符 贖宥状 」を発行しました。 免罪符とは、「これをお金で買えば、生きている間に犯した罪が軽減される」というものです。 当時のヨーロッパでは、しばしばペストが流行し、人々は常に死への不安を抱えていました。 免罪符を買えば罪が軽減され、死後の審判で赦され、地獄行きを回避できると信じ、人々はこぞって免罪符を買い求めました。 教会の腐敗を訴えるため、95か条の意見書を教会の扉に掲示 この「免罪符」に異を唱え、教会の腐敗を批判したのがマルティン・ルターです。 彼は「こんなもので罪から解放されるなど、信仰を愚弄 (ぐろう)するものだ。 」として批判。 その中で、カトリック教会の免罪符制度の乱用を批判するとともに、信仰の意味を問いかけ、これに対する公開討論を呼びかけました。 ルターの行動は、ヨーロッパ全土を巻き込んだ「宗教改革」へと発展しました。 教会の扉に掲示されたのは、ラテン語でしたが、ドイツ語に訳され、二週間のうちに、全ドイツ中に広まりました。 ここに宗教改革の第一歩が開始しました。 今のドイツ人の感覚でも、自ら犯した罪をお金で解決できるという免罪符は、良くない歴史だったと多くの人が思っているようです。 ルターはプロテスタントの人々からは、もちろん好感を持たれており、カトリックの人々も、ルター嫌うということはないといいます。 反響は大きく、多くの賛同者や支援者が現れ、マルティンの予想を超えて大きな教会の改革運動に発展しました。 これが「宗教改革」です。 しかし、マルティンはこれを拒み、公会議のすみやかな開催を求めました。 ここに、マルティン・ルターとカトリック教会(ローマ教会)との対立が明確になりました。 その決議は全教会に対して拘束力を有する(大辞林 第三版)。 破門宣告・処刑宣告 1519年のライプチッヒでの神学討論会では、カトリック教会最大の理論家といわれる神学者ヨハン・エックの巧妙な戦術にはまり、マルティンは異端者とされてしまいました。 さらに、1521年4月、ヴォルムスの帝国会議では、処刑を宣告されてしまいました。 皇帝からも見放され、命を失ったも同然でした。 ラテン語聖書をドイツ語に翻訳 マルティンは、ヴォルムスの帝国会議から帰途につきましたが、途中のチューリンゲンの森で消息を断ちます。 その間、マルティンは、城の一室にこもり、それまでドイツでは一部の人にしか読めなかった新約聖書を、ギリシャ語原典から、誰もが読めるドイツ語に翻訳しました。 翻訳された聖書は印刷技術によって数多くの人々に広まり、誰もが聖書を手元に置くことが可能になりました。 更に、賛美歌もドイツ語に翻訳されました。 こうして、人々は神の言葉を直接知ることができるようになりました。 同時期に開花したルネサンスの精神と同じく、キリスト教も一人ひとりが向き合い、信仰を深める宗教へと変化していったのです。 当時の神聖ローマ帝国の皇帝は教皇を支持していました。 やがて宗派をめぐる対立が激しくなり、帝国内は混乱状態となります。 そして1555年、アウクスブルクの宗教和議でようやく対立関係は終結し、ルターの宗派は神聖ローマ帝国内で信仰を認められます。 この時、宗派を選ぶ権利は、個人には認められず、国が決定権を持つこととなりました。 こうして、それまで支配力が大きかった神聖ローマ帝国や教会は力を失っていきました。 代わって、それぞれの国が支配力を高めていく時代へと突入することとなります。

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黒死病/ペストの流行

ペスト ルネサンス

立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長の世界史講座。 第5回は13~14世紀がテーマ。 13世紀は、西洋では「近世初の知的君主」といわれたフェデリーコ2世、アジアではモンゴル世界帝国をつくったクビライ・カアンという、ともに合理的な国家運営を行う近代的なリーダーが誕生した時代だった。 ところが14世紀に入ると、優れたリーダーの死後に生まれた権力の空白状態に、気候の寒冷化とペストの大流行が重なり、世界は荒れ始める。 中国には明という暗黒政権が生まれ、トルコ人のオスマン朝が東ヨーロッパに誕生する。 チンガス・カンの即位に始まるモンゴル帝国の拡大• 銀と紙幣で貨幣経済を広げた合理主義者のクビライ・カアン• クビライの中国統一。 日本に攻めてきたのは軍人の失業対策• 英仏100年戦争とフィレンツェの銀行家の没落• 寒冷化によるペストの大流行と、中国・明の「暗黒政権」• 1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。 ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。 同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。 2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。 2012年上場。 10年間社長、会長を務める。 2018年1月より現職。 まず、ローマ皇帝フェデリーコ(フリードリヒ)2世 が登場します。 お父さんがドイツ王でローマ皇帝のハインリヒ6世。 お母さんがノルマンシチリア王国、南イタリアを保有していたノルマン王国の唯一の後継者です。 この2人の子どもですから、ほぼ自動的にドイツ、北イタリアとシチリア、南イタリアを支配することになります。 ただ、フェデリーコ2世はお父さんもお母さんも早く死んだので、孤児になってしまいました。 成人して1212年にはドイツ王になります()。 1215年にはイングランドの最初の憲法であるマグナ・カルタが成立しています。 その頃、イングランドはアンジェー帝国と呼ばれており、フランスの大領土、ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌ、いわばフランスの西半分全部とイングランドを持っていたわけです。 ところが、当時のイングランド王のジョンはあまり賢くなくて、フランスと争う中で大陸の領土をほとんど取られてしまいました。 ジョンは性懲りもなく、取られたものを取り返そうと思い、イングランドにたくさん税金を課して、またフランスに攻めていこうとします。 領土を失ったのはジョンだけではありません。 ジョンに仕えていたイングランドの貴族のほとんどはフランス人で、彼らはノルマンディーやアンジューやアキテーヌから来た人たちです。 つまり彼らも自分たちの領土を失ってしまったわけです。 しかも、その理由がお粗末な王様の政策に起因するのですから、彼らはがまんできずに決起したのです。 つまりマグナ・カルタとは、「あんたのようなアホな王様が勝手に戦争して、税金を課すのは許さへんで。 うちらの了承を得ないで勝手に税金をかけたらあかんで」というものなのです。 マグナ・カルタは今でも有効で、イングランドの憲法の一部を成しています。 同じ年、ローマ教会に告解部屋ができます。 「悩みがあったら聞いたるで」というもので、壁に穴が空いていて、顔を見ずに話ができる小さい部屋です。 これは、結果的にものすごく大きい権力をローマ教会に与えることになります。 なぜなら、一人ひとりの告白は大したことがなくても、小さい情報が全部ローマに集まったら、ある大きな絵を描けることになる。 ローマ教会は情報の収集によって、ものすごく大きい力を持つようになるのです。 フェデリーコ2世は1224年にナポリ大学をつくります。 これはボローニャやパドヴァに次ぐヨーロッパで最も古い大学の1つです。 ボローニャやパドヴァでは哲学や神学を教えていましたが、ナポリ大学はおそらく世界で初めての官僚養成学校です。 明治政府が東京大学でやろうとしたことをフェデリーコ2世は既にやっていたのです。 そしてローマ法を復活させます。 フェデリーコ2世は中央集権国家をつくろうとしていたのです。 フェデリーコ2世は1228年に十字軍を起こしてエルサレムに出向きます。 ただ、フェデリーコ2世は文明の十字路であったシチリアで育ち、そこでアラビア語を習得することができたため、当時のアル=カーミルというカイロのアイユーブ朝の君主と直接話し合って、外交交渉でエルサレムを取り戻しました。 しかし、当時のローマ教会は戦ってイスラム教徒の首を切った人が偉い、という発想ですから戦わなかったフェデリーコ2世を破門します。 また、ローマ教会は異端の集まりだったカタリ派を撲滅させようと、ドミニコ修道会(1216年創立)を南フランスに送りました。 カタリ派は善悪二元論です。 全知全能の神様が世界をつくったのに、なぜ世の中には不正や悪がのさばっているのか、という一神教の問題点を「世界は悪い神様といい神様が争っている。 悪がのさばっているときは悪い神様の力が強い。 けれども最後の審判のときには必ずいい神様が勝つ」と、現世の不条理をタイムラグで説明する教団でした。 カタリ派の教義はキリスト教の正統教義と激しく対立してローマ教会を厳しく批判します。 「イエスはどんな生活をしていたか。 何も持たずに世の中を回って教えを説いていたで。 今のローマ教皇は何をしているのや。 宮殿に住んで、おいしいご飯を食べて、きれいな服を着て、女性をたくさんはべらせているやないか」と。 痛いところを突かれたローマ教皇は、絶対に許さないと「異端審問制度」をつくります。 これはキリスト教の中でもローマ教会だけです。 ほかの宗派はこんな制度は持っていませんし、世界のすべての宗教の中でも異端審問制度を持っている宗教は他にはありません。 だって嫌だったら出ていけばいいだけの話ですよね。 教会側も異端と思ったら追放すればいいだけなのに、それを処罰して、場合によっては死刑に処すというわけですから。 この制度はローマ教会固有のものですが、こんな制度を考えついた理由は、おそらく教皇領という領土を持ってしまったからだと思います。 領土を持つことでローマ教皇は世俗の君主にもなったわけですから、国で罪を犯した人は国で処罰する、と考えます。 その連想で異端審問制度を思いついたのではないか。 つまり、領土を持った教会という特徴が、この異端審問制度には表れているのかもしれません。 フェデリーコ2世は1250年に亡くなりますが、19~20世紀にかけて、ブルクハルトという歴史学者がフェデリーコ2世のことを「近世初の知的君主である」と述べています。 当時はキリスト教を信じ、神が絶対だという思想がヨーロッパにまん延していたのを、合理的な精神で相対化したおそらく最初の君主だったという指摘です。 フェデリーコ2世については、塩野七生さんがフェデリーコ2世の生涯に関する本を書いています。 その本の最初に、フェデリーコ2世にほぼ400年遅れて生まれたダ・ヴィンチのメモとフェデリーコ2世が自分で書いた文章が並べて置かれています。 自然に対する見方がほとんど一緒なのです。 いかにフェデリーコ2世が新しい君主だったかということが分かります。

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ニュースレター(機関紙)

ペスト ルネサンス

この記事は、中国、モンゴルから中東を経て、1347年から1352年にかけてヨーロッパで蔓延したペスト(黒死病)、いわゆる大ペストについて、3つの誤解を解こうとするものである。 いや、そんな誤解はしていないという人もいるかもしれないが、COVID-19にともないこの中世のペストが引かれることが多くなったので、あえてこのタイミングでまとめておきたいと思う。 本題に入る前に、この記事の内容を調べることになった経緯を説明しておきたい。 僕が所属する東京都立大学では、3月後半に予定されていた多くの卒業イベントが中止、ないし大幅に縮小して実施となり、卒業生と名残を惜しむ時間もほとんどなかった。 さらに、オリンピックの延期が決まった頃、新学期の授業開始もゴールデンウィーク明けに延期となった。 この間学生はほったらかしとなり、とくに新入生は1度もキャンパスに足を踏み入れることもできず、東京都の方針を受けて、引っ越しは完了し家賃を支払っているにもかかわらず、東京の新居に転入できていない人も数多くいる。 僕自身も大学進学に際して地方から上京してきた身であり、あの時に今日と同じ状況にあったらどうか、と想像するに非常につらい。 そうしたなか、人文社会学部の新入生が自主的に教員にコンタクトを取り、授業が始まるまでに読んでおくべき推薦図書について情報を集め始めたという。 その意気込みを受けて、彼らを対象にzoom勉強会が企画された。 4月後半に全6回が実施され、僕も最終回を担当させてもらうことになった。 自主的な学びへの渇望とそれに快く応えること。 これこそが大学の営みの本質なのではないか。 新入生の意欲にいたく感心した。 僕の担当回が4月27日であった。 当初はCOVID-19を念頭において、漠然と「中世のペスト」について、同時代の史料を扱いながら感染の様子や中世の人々の認識でも紹介しようかと考えていたのだが(石坂尚武『イタリアの黒死病関係史料集』は良書である)、最終的にこの中世のペストに関して何点か誤解されてきたことがあるな、と思い至った。 そこで、主だった誤解を3点整理しておきたいと思う。 誤解その1:中世にペストが蔓延し、くちばしのようなマスクをつけた医師が治療に従事した パウル・フュルストの版画(1656年)(Wikipediaより) まずはペスト医師について。 この挿絵には、ペストの治療に従事する医師が身につけるべき服装が描かれている。 つばのついた帽子、全身を覆い厚みのある防護服、手袋、そして手には先端に砂時計のついた木の枝を持っているが、何より印象的なのは鳥のくちばしような奇怪なマスクである。 現在、イタリアで毎年盛大に行われるカーニバルの祝祭でしばしばこのような格好をした市民がいるため、見覚えがある人も少なくないだろう。 「疫病の医師が行進、カーニバル中止のベネチア」 このペスト医師にふさわしいとされる服装は、1619年にルイ13世お抱えの医師シャルル・ド・ロルムが最初に考案した。 いわゆる17世紀科学革命が進行中で、啓蒙思想の到来を目前としており、科学的・合理的思考がヨーロッパ社会に根付こうとしていた時代のことである。 中世にはこのような衣装はなかったのである。 問題は、この図像がそれより300年も前の14世紀のペストと結び付けられて理解されることが多い、ということである。 ウィンストン・ブラックが2019年に出版した『中世ー事実とフィクション』によると、こうしたペスト医師に関するアナクロニズムは英語圏の歴史教養書でしばしば見られるという。 日本においても、例えば次の記事は、中世のペストについて説明しながら「ペスト医師のカラスの顔のようなマスクも、空気感染を防ぐためのもの」としている。 「歴史は繰り返される?ペストと新型コロナウイルスへの対応」 ほかにも、キャプションでマスクをつけたペスト医師の格好が17世紀に遡ることを記しながら、本文で中世のペストを扱う記事もある。 「14世紀のペスト大流行の後は経済が急拡大した…しかし今回はそうではなさそう」 こうした図像の操作については、何もペスト医師だけの問題ではないらしい。 ジョーンズとネヴェルは、現在の出版物やウェブサイトで中世のペストを示すために用いられる図像(例えばペスト患者を描いたもの)のほとんどは、そもそもペストを表現するために描かれたものではなかったと指摘している。 ユーラシア規模で前代未聞の犠牲者を出した大ペスト。 それだけにインパクトは大きく、人口に膾炙するからこそ時代錯誤による誤解が生じ定着しているのかと思うが、それ以上に、我々が抱いている中世観、つまり暗黒の時代であり非科学的で野蛮、といったイメージに、この奇怪なマスクをつけたペスト医師が見事に適合するのかもしれない。 中世についてこうした歴史観の混乱はしばしば見られる。 中世にはほとんど見られなかった魔女狩りなどはその好例であろう。 大ペストの時期に、スペインからドイツにかけてユダヤ人迫害(ポグロム)が頻発したことはよく知られている。 キリスト教徒とユダヤ人は-とりわけドイツ語圏では-それまでうまく共生していたようであるが(拙訳『中世共同体論』参照)、突如として大規模な迫害・追放が各都市で起こった。 これまで多くの研究者がその直接的・間接的理由を探ってきたが、そこでしばしば問われてきたのが「大ペストが先か、ユダヤ人迫害が先か」という問題である。 以下、佐々木博光「黒死病とユダヤ人迫害」を参照しながら、フランス東部のストラスブール周辺で書かれた同時代の年代記を見ていこう。 また、ユダヤ人は泉や井戸に毒物を投げ込むことによってこれほどまでにペストを大きくしたと誹謗された。 かくして、教皇クレメンス6世が彼らを保護したアヴィニョンをのぞけば、地中海からドイツにいたる各地で彼らユダヤ人は焚殺された。 ノイエンブルクのマティアス『帝国年代記』より この記述からはたしかに、ペスト禍にあって井戸に毒物を投げ込んだという陰謀論によって各地でユダヤ人が迫害されたことが読み取れる。 当時の史料のみならず、現代の研究者が書いた概説書にもそうした理解が散見される。 しかし、これを事実と受け取るのは安易であり、史料批判をしなければならない。 佐々木が指摘するには、個々の都市について史料をあたってみると、ユダヤ人がペスト禍における陰謀論によって迫害されたケースはほとんど見当たらないそうである。 しかも、上で引用した年代記さえも、一般的な次元でこのような書きぶりをしているにもかかわらず、ストラスブールについてポグロムが1349年の2月14日、ペスト到来が同年6月中旬であったと説明している。 またクローゼナーの『ストラスブール年代記』によると、ユダヤ人の処遇をめぐって、これを保護する市当局と、彼らに毒物混入の罪を着せ火刑にすることを願った政治グループとの対立があったことがわかる。 そして、ユダヤ人迫害が起こった1349年2月14日の数日前に、政治クーデターが発生していた。 つまり、そもそもユダヤ人の迫害はペストとは関係がなく、キリスト教徒同士の政治抗争に巻き込まれて発生したと言えそうである。 ここで僕に他の地域に視野を広げる余力はないが、ユダヤ人迫害の理由は都市ごとにケース・バイ・ケースであり、上で引いたマティアスの年代記証言は彼の雑駁な印象を記しているに過ぎないようである。 それでは、なぜ井戸に毒を投入してペストを広めたという陰謀論(A)によってユダヤ人は迫害された(B)、と理解されるのであろうか。 言い換えれば、災害時にマイノリティの迫害が生じる理由について、理解の範型、パターンのようなものを持っているのかもしれない、ということだ。 ここですぐに思い出すのは、関東大震災の時に起こった朝鮮人の虐殺である。 あの時、朝鮮人が井戸に毒物を投入した、というデマによって一連の事件は起こった。 僕たちは無意識のうちに、こうした範型に当てはめて中世のユダヤ人迫害を理解しようとしているのかもしれない。 いずれにせよ、歴史観の形成にあたって、私たち自身が有している認識の癖はいつも自覚しておいた方がよさそうだけど。 カーの『歴史とは何か』を改めて紐解くのもいいかな、という気持ちにさせられる。 誤解その3:大ペストは社会を一変させ、資本主義やルネサンスをもたらした 以上は学術的にはほぼ解決している誤解だが、3つ目の誤解はそう単純ではないので少し慎重に書きたいと思う。 14世紀半ばの大ペストによって、一方で人口が激減してヨーロッパの社会・経済が一変し資本主義が生まれ、他方でキリスト教信仰が揺らぎ人文主義やルネサンスが到来した、といった言説がしばしばみられる。 今回のCOVID-19を受けて書かれたものの中にもこの種ものが散見される。 もちろん、大ペストという歴史事象が社会に与えたインパクトについては、各論者の書き振りにグラデーションがある。 例えば次の記事は歴史の専門家によって書かれたものだけあってとても慎重である。 「14世紀半ば、全欧が怯えた「黒死病」パンデミック」 しかし、次の2本の記事はどちらもそのインパクトを極端に高く評価している例である。 極端であるがゆえに、歴史理解が正確ではない箇所もある。 出町譲「人類と感染症 2 「ペスト」とルネサンス」 「(明日へのLesson)第3週:クエスチョン 感染症による社会の変質を考える 東京大学入試問題から」 もちろん、専門家によるものではないため致し方ないことであるかもしれない。 しかし、ここであえて強調したいのは、一つの出来事によって歴史の大きな流れを一括りにとらえたい、という欲求についてである。 この気持ちに抗うことはなかなか難しい。 1789年7月14日に起こったバスティーユ牢獄の襲撃はフランス革命のきっかけとして重要だが、その後の展開を「決定づけた」とまでは言えない。 これはすぐに理解してもらえるだろう。 一方、大ペストは約5年にもわたって続いたカタストロフィーである。 これが社会を大きく転換させ得たととらえることもできそうなものである。 しかし、今世紀に至るまでの研究、さらには今世紀になって現れた新しい研究は、社会の変化はもっと長いスパンで理解しなければならないことを教えてくれる。 20世紀において、14〜15世紀の社会経済史研究が大幅に進んだ。 それらを総ざらいした瀬原義生はこうまとめている。 1349年の大黒死病は、大量死を招いたが、それ自体としては、顕著な永続的影響を残さなかった。 しかし、その後の、度重なるペスト禍と、それに伴う深刻な人口消耗は、1370年頃になると、人口復原力を上回るにいたり、人口の減少の恒常化はしだいに厳しい経済的影響をおよぼす要因となった。 社会はそれほど脆弱にはできていないということかもしれない。 さらに、大ペストをそのインパクトにおいて相対化しようとする見方は、中世後期の危機はすでに14世紀の初頭には始まっていた、という理解によって強化されるだろう。 ユーラシア大陸全体の視野におさめ、気候などグローバルな自然環境も分析しながら13世紀末から15世紀にかけてヨーロッパ社会の大変動(the Great Trasition) (5月2日追記:『現代思想』vol. 48-8で諫早さんが「大遷移」としていたので訳語はこれにしましょう)を論じたキャンベルの新著は注目に値する(そのため今学期、僕の学部ゼミではこれを講読する予定である)。 社会の変化が14世紀を通して生じたとして、その中で大ペストが持つ意味は何か。 それは、「問題の加速化」ということに尽きるだろう。 13世紀に農村社会はすでに人口飽和に到達しており、社会は潜在的に構造転換を必要としていた。 このことは、COVID-19の感染拡大によって人とのコンタクトを制限され、働き方、学び方について議論せざるを得ない状況に陥っている僕たちにとって、とても理解しやすいのではないかと思う。 こうした諸問題はCOVID-19が蔓延して突然降って湧いたものではなく、私たちがこれまで見て見ぬ振りをしてきたものに過ぎない。 中世のペストは、僕たちがしばしば陥りがちな歴史認識の落とし穴についてうまく教えてくれる題材であった。 それもこれも、今日未曾有のパンデミックに直面しているからに違いない。 中世のペストに関する誤解と歴史認識の問題を頭の片隅において、改めて今日の問題に目を向けることも悪くないだろう。 参考図書• Lori Jones and Richard Nevell, Plague by Doubt and Viral Misinformation, in: Lancet Infectious Diseases 16, no. 10, pp. 235-240. Joseph P. Byrne, Encyclopedia of the Black Death, Santa Barbara 2012. Bruce M. Campbell, The Great Transition. Climate, Disease and Society in the Late Medieval World, Cambridge 2016. Winston Black, The Middle Ages. Facts and Fictions, Santa Barbara 2019. 佐々木博光「黒死病とユダヤ人迫害ー事件の前後関係をめぐって」『大阪府立大学紀要 人文・社会科学』第52巻、2004年、1-15頁• 瀬原義生「大黒死病とヨーロッパ社会の変動」『立命館文學』第595巻、2006年、102-164頁• アルフレート・ハーファーカンプ著/大貫俊夫、江川由布子、北嶋裕編訳、井上周平、古川誠之訳『中世共同体論』柏書房、2018年.

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