ほうとう 三国志。 龐統士元 諸葛亮と並び称され、鳳雛と呼ばれた名軍師の生涯|三国志

ホウ統

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龐統、字は士元(しげん)。 才能がありながら口下手で身なりが冴えなかったためあまり評判が良くありませんでしたが、人物鑑定で有名な司馬徽(しばき)に、その才能を認められたことでようやく名が広がっていきます。 龐統は俗にいう天才肌の知将だと思います。 劉備配下になりたての頃、耒陽(らいよう、現在の湖南省耒陽市)の県令の職を任されたものの、龐統は1か月の間お酒ばかり飲んで仕事を全くしなかったため、村人から訴えられました。 しかし、劉備が派遣した張飛に仕事をしないことを問いただされると、溜まっていた1か月分の仕事を半日で全て片付けてしまたという逸話があります。 赤壁の戦いでは、曹操の軍営に潜り込み曹操に船酔い対策として、船同士を鎖で繋げることを進言することにより。 周瑜の連環計が成功します。 諸葛亮(しょかつりょう)の臥龍(ふくりゅう)に対して龐統は鳳雛(ほうすう)と称されるほどの人物でしたが、益州の戦いで矢にあたり36歳の若さで死去します。 郭嘉、字は奉孝(ほうこう)。 郭嘉は若い頃から将来を見通す洞察力に大変優れていました。 曹操に呼び出された際に郭嘉は天下のことを議論しました。 曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と才能を高く評価し、郭嘉は「真に我が主君だ」と言っていたそうです。 そして曹操の軍師として仕え、数々の助言をおこないました。 呂布(りょふ)を討伐を進言し、籠城する呂布を攻めあぐねたところ水計を行うように進言をし呂布に勝利しました。 曹操が劉備を討伐しようとしていましたが袁紹に背後を襲われることを心配していましたが、郭嘉は袁紹(えんしょう)が決断を欠く人物であるから迅速に行動できないと判断して、劉備(玄徳)を討伐することを進言しました。 曹操は劉備(玄徳)を攻撃し敗走させました。 この際、袁紹は攻撃してこなかったそうです。 袁紹死後、袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)が袁家の後継争いをしていました。 曹操は内紛につけこんで袁譚と袁尚の討伐を考えていましたが、郭嘉は「袁紹は、袁譚と袁尚のどちらが後継者か指名しないまま死んだので、このまま攻撃して両者を団結させずとも、放っておけば後継者争いを始めます。 南の劉表を討伐すると見せかけて変化が起こるのを待つのがよいでしょう」と進言しました。 郭嘉の進言は当たり袁譚と袁尚は骨肉の争いを始めした。 このように将来を見通す洞察力よる的確な進言により軍師として貢献しました。 陸遜、字は伯言(はくげん)。 本名は陸議(りくぎ)。 「呉の四姓 ごのしせい 」といわれる有力豪族の陸家の出身と言われています。 軍事と政治における才能のある軍師でした。 先見の明(事が起こる前にそれを見抜く見識)があり、周到に熟考してことをなす性格でした。 陸遜は異民族である山越の討伐での活躍が孫権に認められ重要視されるようになりました。 夷陵の戦いでは大都督に任命され荊州を取り戻すために劉備(玄徳)討伐を行います。 侵攻してきた劉備(玄徳)軍の伏兵を見破り、火計などで攻撃し、劉備(玄徳)軍に壊滅ダメージを与えます。 また、石亭の戦いでは魏の曹休(ソウキュウ)率いる10万を相手に石亭に誘い込み、曹休に大勝しました。 功績の割に陸遜の評価が低いことがありますが、諸葛亮と並ぶほど知将でした。

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三国志好きに質問です 蜀のホウ統が もし落鳳坡で死ななかったら 蜀は簡単に統一を果たせたと噂ありますが まず、歴史が変わるとすれば 荊州を守っていた関羽とホウ統か諸葛亮が加わり 呂蒙の罠を防せげた あるいは無事に逃げるかして関羽は救われ それによって夷陵の戦いも起こらないから劉備と張飛も死ななかった ホウ統の死で諸葛亮がホウ統の分までの仕事をこなしていて 疲労がたまっていたから 五丈原の戦いで過労死?した ホウ統がいたらもう少し長生きできただろう? 魏の曹操は、関羽の死から病気になり 墓みたいなのを建てようとして なかなか切れない大木を曹操が切ったらそこから血が出て? 浴びて それが原因か?死んでしまい、後を追って夏侯惇もいっちゃった が、この2人もこの時期に死ぬことはなかっただろう。 父の後を継いで早くも魏王になった曹丕ももう少し長く生きたかな? 呉は呂蒙が呪死することもなく、孫尚香も自殺することはなかっただろう どっちにしてもここに挙げた人達はちょっと命が伸びただけか? ホウ統1人で歴史なんか大きく変わらなかっただろうか? または皆生きていても別な戦が起こって簡単に蜀は総崩れになったのだろうか? 龐統が落鳳坡で伏していた益州軍の張任に射抜かれて戦死したのは有名なお話ですが、この地名も原因も三国志演義の著者の羅貫中の作り話で架空のお話ですね。 歴史の事実では龐統は雒城包囲戦の最中に射抜かれて戦死してしまいました。 質問者様は小説のお話を歴史の事実だと思い込んでいる節があるようですが、史実を元に描かれたので事実もありますが、大半が脚色されたり話を入れ替えられたり作られた架空の話があります。 三国志演義のお話は歴史を元に作られてた小説なので物語では作られた話が多々あり歴史の事実を書いたものではありません。 古くから現在、三国志と呼ばれている本が2種類あり、ひとつは歴史の本で正史(*正史とは国家公認の正統の歴史書)、もうひとつは小説です。 歴史書のほうは西暦三世紀にできたもので、小説は十六世紀ごろにできたものです。 小説の物語の方は「三国志演義」と言うのが本当の題名なのですが、私たちの国ではこれも「三国志」と呼ぶので、ごっちゃになっていますね。 そして、龐統は益州軍にすらと戦って戦死して敗北しているようでは魏や呉にはとうてい勝利なんてできないでしょう。 前線にいすぎです、兵法を熟知しているのか疑問に思ってしまいます。 龐統が生きていたとして諸葛亮と北伐を成しとげれるなんてとても思えませんし国力と将の人材不足で無理だと思います。 蜀の人口は約94万人に対して魏の人口は約443万人と言われています。 ちなみに呉は230万人です。 蜀と呉をたしても魏におよびません。 兵数はそれに比例します。 龐統が生きていても大きく歴史が変わる事はないと思います。 私は三国志演義はもちろんのこと三国志の史実に関する書を多々読み、さらには孫子の兵法書や北京大学考古系に留学(文部科学省交換留学)の中国考古学ならびに中国軍事歴史を専門に詳しいバトルマスターこと来村先生の書をいくつか読んでいますが、蜀にどう考えても天下統一を成すのは国力や人材不足で無理と思います。 ちなみに関羽さんはプライドが高く入ったばかりの黄忠と五虎将とゆう同じ位が納得いかいと不満に怒ったり、目上の名士層や文臣に対して横柄で驕慢であったとあり。 文人官僚だけでなく他の武将達からも関羽は、同じ劉備陣営の武将たちに好意を持たれていなかったとゆうヤッカミの強い人物だったことも例が多く挙げられています。 馬超が加わった時には自分とどっちが上だと問い、関羽が上だと返事したら、大いに満足してその手紙を人に見せまわったとゆう記述もあります。 劉備の武将の中で自分が1位でないと承知しなかったようです(本伝)。 なので諸葛亮も関羽には手を焼いていたようですので、龐統か諸葛亮が加わりとゆうのもうまくいくような気はいたしませんです。 あと、蜀主の劉備とその側近は、もともと流浪の一行であったものが、荊州の劉表を頼りに身を寄せてきた他所者にすぎなく、蜀の土着の士人層との間に心からの君臣関係が結ばれにくい面があったようです。 後に劉禅の代になって、魏の大軍が蜀に来たとき、ほとんど抵抗らしいこともできずに蜀が降伏したのは、蜀の士人間では劉家のために必死で戦おうとの気魄を欠いていたからにほかならないと解説書にあります。 おまけですが、それぞれの息子を見てもダメ息子で諸葛亮の子の諸葛瞻は高い位もらって若いとはいえなにしていたんだと言いたくなります。 父の志をめざして蜀のために頑張ってほしかったですがなにしたんだと言いたくなります。 すごい弱いです。 そして更にダメ息子が龐統の子の龐宏で性格に問題があって、涪陵の太守どまりで終わちゃいました。 戦場には無関係のようですね。 あ、長くなってしまいましたが曹操や呂蒙のその死因も小説上のことで、実際の死因とされてるのは違いますよ。

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龐統とは (ホウトウとは) [単語記事]

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龐統(ホウトウ)とは、三時代の・に仕えた軍師である。 概要 南襄陽県の人。 字は士元。 謚は靖侯。 に、にが居る。 またの名付け親であるはで、そのである山民とは同士。 因みに山民の妻はのである為、とは血は繋がらないながら、親戚同士である。 身なりが冴えなかった為、過少評価を受けて育つ。 人物評で有名な・徽に才を認められ、ようやく評判が上がった。 また、のに『(=の)』というを与えられ、『』のと並び称された。 のが亡くなった際は、遺骸を送り届ける役を務めた。 に仕官した際、やはりで判断され、ドに飛ばされる。 グレて碌にをしなかった為、キレたは彼をしてしまう。 それを聞いたがへ「彼ほどの人物は、それに見合う役職を与えてこそ」とを送った。 更に学友のがとりなした為、は彼を呼び出して一晩り合い、ようやく彼のを認めた。 その後、と同役職の軍師中朗将に抜された。 同族のを攻める事を渋ったを諌め、入を決心させる。 この際、軍師として同行し、を始めてからもなを助け、大いに活躍する。 しかし・が守る雒を包囲した際、流れ矢に当たって。 36歳。 逝した為、逸話や実績はどないものの、軍師としての才は以上だったとも評される。 も「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・楚の地域の人士から才に 秀でた人物と謳われていた」「臣にあてはめるとの」と、彼の才を認めている。 とべられる事も多い。 高祖の・・のように、と龐統、がしっかり分業をしていれば、のも夢ではなかったのではないか、というもある。 演義での活躍 色・・鷲鼻の醜男として描かれている。 で営側に就き、に『連環の計』を授ける。 その後、自らの営に軍師として赴き、の船酔い対策として、に船と船を鎖で繋げるべきと進言。 の火攻めを成功に導いた。 この時に再登場したに策を授け、から彼を事に逃がしている。 の葬儀に参列した際、とに軍師となるよう誘われる。 まずと会うも、顔が不細工の上に暴言を吐い為、気持ち悪がられる。 次にの所に向かうも、やはりキモがられる。 何とか仕官を認められるも、県に飛ばされる。 グレた龐統は浸りで、碌にをしなかった。 しかしの命でされたが脅した所、溜まったを一日で片付けてしまう。 の報告で、はようやく龐統の才に気付き、自らの近くに置くようにした。 入の際、は彼を気遣い、的らしきを貸し与えた。 中、部下にその土地の名前が落坡という場所である事を聞いた龐統は「自分の号は。 が落ちるとは縁起が悪い」と考える。 嫌なは的中。 と間違えられて配下の伏兵に射殺された。 落坡はの地名だが、龐統が亡くなった後、演義のに因んで付けられた名前と考えられる。 その他のフィクションにおける龐統• のでは、特に不細工には描かれていない。 へのが遠因となり、する。 のでは、肌のに対し、頭として描かれる。 彼の死は、の敗死の原因となる。 見賢一の『泣き弱』では、の策略により『』のを付けられた事にされる。 、に負けず劣らずのクセモノ。 『』では隻腕の頼。 彼としてはしく、かなりに描かれた。 のは・らしい。 『子ちゃん』ではの部下。 いにい三を被った、のような格好の。 『』では当然のように。 潜入・活動を得意とする。 『くん』では、に傷のあるエキゾ。 矢でこそ死ななかったが、死ぬ運命は変わらなかった。 『』では『統』という名前で名は(り)。 のような出で立ちをしている。 の()の「」に対抗してか、「」が口癖。 『』に登場するは、龐統の生れ変わりという設定。 自分のを自在に操るを持つ。 『』では額にがある。 が得意。 は印が薄過ぎて、彼の顔をせなかった。 の一つ『』では、に仕える『』として登場。 機駕(軍)と敵対する(軍)に仕えるを視している。 の『』では、文官として、のを誇る。 『』では2からの登場。 は『あっし』。 醜い顔を隠す為、隠者のように顔を隠し、のような格好をしている。 身軽な上、術でをしたり、を飛ばしたり、軍師を放ったりする。 の元とされる『話』ではの元で冷遇された際、グレてをしなかったどころか荊州四を扇動して叛乱を起こすというとんでもない事をやってのけた。 ちなみに話の中ではに通じていたり変わり身の術でをたぶらかすなど的な要素が含まれており、での龐統像に近い。 関連動画 ではを扱ったの・で登場することがある。 関連商品 関連項目•

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