マリア 女。 マリア・テレジアの子供たち

聖マリア修道女会

マリア 女

マリア・テレジアの子供たち > > > No. 058 マリア・テレジアの子供たち マリア・テレジア ハプスブルク家で唯一の女帝だったマリア・テレジアには5人の息子と11人の娘がいました。 その内、大人になるまで生きたのは息子4人と娘6人。 当時は天然痘で子供の半分が早逝する時代でしたから、これでも運のいいほうでした。 今日はそのマリアテレジアの子供たちの送った人生をちょっとご紹介しましょう。 まず、長女のマリア・アンナは体が弱かったので、一生を独身で過ごしました。 こういうときはよく修道院送りになったりするものです。 しかし、マリア・テレジアはプラハに女学校を作ってこの子をそこの校長にしました。 修道院に行くと演劇やコンサートを楽しむなんてことが許されなくなりますから。 いい計らいですね。 長男のヨーゼフは父フランツ・シュテファンの死後(1765年 、皇帝の座に就きます。 で、張り切っていろいろと改革をしようと乗り出すのですが、どれも準備不足でカラ回り。 矛盾した法令を出したり撤回したり、保守勢力の教会を敵に回したりで、結局何の成果もあげないまま世を去りました。 ただ、本人が国民の役に立ちたいと思っていたまじめさだけはそれなりに理解され、のちに日本の水戸黄門みたいなノリで「隠れ民衆王ヨーゼフ2世」の作り話しがいくつもできました。 4女のマリア・クリスティーネは姉妹の中でただ1人、恋愛結婚を許されました。 相手はザクセン王家の傍系にあたる公子アルベルト。 父のフランツ・シュテファンは「身分違いも甚だしい」とこれを拒んでいましたが、マリア・テレジアが「まあまあ!」といって諌めます。 そのうちにフランツ・シュテファンは急逝。 これで反対者はいなくなり、マリア・クリスティーネとアルベルトは無事結婚しました。 その後ハンガリー総督に抜擢されたアルベルトは、ウィーンに近いブラティスラヴァ(独名プレスブルク)にマリア・クリスティーネとの居を構えます。 で、この夫婦は政治的に何ひとつ成果を出しませんでしが、生活は幸福でした。 また、高い教養をもつアルベルトの芸術品コレクションが世に残っています。 その文化遺産を納めたウィーンの美術館は、アルベルトの名を冠して「アルベルティーナー美術館」と呼ばれているそうです。 5女のマリア・エリーザベトはすごい美人で求婚が殺到という状態。 どこの王家に嫁ぐのかと親の期待もいっそうだったのですが、24歳のとき痘瘡にかかってしまいます。 で、一命は取りとめましたが、その美貌は一夜にして失われました。 それで、姉のマリア・クリスティーネがいるプラハの女学校に行ったそうです。 6女のマリア・アマーリエはドイツの小国プファルツ=ツヴァイブリュッケンの公子カールと相思相愛になりましたが、政略結婚で北イタリアのパルマ公フェルディナンドに嫁ぎました。 この8歳下の夫は教会の鐘を衝くことと栗を焼くことがお気に入りで、とても君主の器ではないハズレ。 で、恋人との仲を裂かれたマリア・アマーリエは頭にきて自暴自棄となり、国政をムチャクチャに。 最後はマリア・テレジアから勘当同然にされてしまいました。 その後パルマはフランス軍に占領され、マリア・アマーリエは1802年に夫が亡くなるとプラハの修道院に移っています。 3男のレオポルトは父のご領地だったトスカーナ公国の大公になり、フィレンツェを中心としたこの国の文化・経済の発展に貢献しました。 その後兄ヨーゼフの死を受けて神聖ローマ帝国の皇帝となりましたが、在位2年で死去。 名君の器だったので、惜しいですね。 10女のマリア・カロリーネはガラが悪くて無教養なナポリ王に嫁がされました。 可哀想ですね。 ただ、夫は大ハズレでも、いい子供たちに恵まれたせいか、人が思うほど不幸になったわけではなさそうです。 詳しい資料がないので断定はできませんが、本人がヤケを起こした形跡がないことだけは確かです。 でも、よく耐えましたね。 4男のフェルディナントはモデナ公国というどうでもよさそうなところの公爵になりました。 まあ、こういう小国のお殿様なら、その後の人生もそれほど大変じゃなかったと思います。 実際に住んでいたのはモデナではなくミラノでした。 そこの総督も兼任していたので。 で、ときには従者1人だけを連れて外出というおき気楽ぶりを発揮して、マリア・テレジアにお目玉をくらっていました。 そうそう、ミラノのスカラ座はこの人がいたときに、マリア・テレジアが建ててくれたものだといいます。 11女のマリー・アントワネットはご存知の通り政略結婚でフランスのブルボン家に嫁ぎました。 が、これまた夫はダメダメ。 マリア・テレジアの娘たちは本当に男運が悪いですね。 で、ルイ皇太子(のちのルイ16世)があまりにスカだったので、マリー・アントワネットの心はインテリのスウェーデン人フェルセン伯爵に。 ただし、フェルセンはまじめな人だったので、恋人というよりも親友であり続けたようですね。 最後はフランス革命後に処刑されたマリー・アントワネットですが、フェルセンに出会えたことは唯一の救いといえるでしょう。 もっとも、フランスの民はマリー・アントワネットとルイ16世のおかげで大迷惑でしたが。 最後に、5男マクシミリアン・フランツは息子たちの中で最もデキが悪かったので、子供のうちから聖職者になるための教育を受け、ケルンの大司教になりました。 4男のフェルディナントと同様、これは気楽でいいですね。 以上を見ていると、親の期待を受けなかった子供のほうが、幸福な人生を送る確率は高いようです。 「親の期待は愛情の裏返し」という人もいますが、そんな無責任な愛情は百害あって一利なしですね。 余計な期待で子供を潰すより、ある程度好きなようにさせてあげながら、黙ってそれを見守ってあげる大らかな愛情のほうがいいでしょう。 凡人には難しいことですが。 それから、資産や力のある家との縁談も、本当に幸福につながるのかどうか、一度考えてみる必要がありますね。 「資産は人を守ってくれる」というのは幻想で、多くの場合は「人が資産の番兵になる」というのが現実でしょう。 モデナみたいな小国の番兵でよかったフェルディナントは楽勝でしたけど、力量もないのにフランスという大国を押し付けられたマリー・アントワネットは気苦労が絶えなくてプッツンときてますよ。

次の

佐野マリア 女スパイ熱演、ミッション失敗で「脱がされちゃいました」

マリア 女

マリア・テレジアの子供たち > > > No. 058 マリア・テレジアの子供たち マリア・テレジア ハプスブルク家で唯一の女帝だったマリア・テレジアには5人の息子と11人の娘がいました。 その内、大人になるまで生きたのは息子4人と娘6人。 当時は天然痘で子供の半分が早逝する時代でしたから、これでも運のいいほうでした。 今日はそのマリアテレジアの子供たちの送った人生をちょっとご紹介しましょう。 まず、長女のマリア・アンナは体が弱かったので、一生を独身で過ごしました。 こういうときはよく修道院送りになったりするものです。 しかし、マリア・テレジアはプラハに女学校を作ってこの子をそこの校長にしました。 修道院に行くと演劇やコンサートを楽しむなんてことが許されなくなりますから。 いい計らいですね。 長男のヨーゼフは父フランツ・シュテファンの死後(1765年 、皇帝の座に就きます。 で、張り切っていろいろと改革をしようと乗り出すのですが、どれも準備不足でカラ回り。 矛盾した法令を出したり撤回したり、保守勢力の教会を敵に回したりで、結局何の成果もあげないまま世を去りました。 ただ、本人が国民の役に立ちたいと思っていたまじめさだけはそれなりに理解され、のちに日本の水戸黄門みたいなノリで「隠れ民衆王ヨーゼフ2世」の作り話しがいくつもできました。 4女のマリア・クリスティーネは姉妹の中でただ1人、恋愛結婚を許されました。 相手はザクセン王家の傍系にあたる公子アルベルト。 父のフランツ・シュテファンは「身分違いも甚だしい」とこれを拒んでいましたが、マリア・テレジアが「まあまあ!」といって諌めます。 そのうちにフランツ・シュテファンは急逝。 これで反対者はいなくなり、マリア・クリスティーネとアルベルトは無事結婚しました。 その後ハンガリー総督に抜擢されたアルベルトは、ウィーンに近いブラティスラヴァ(独名プレスブルク)にマリア・クリスティーネとの居を構えます。 で、この夫婦は政治的に何ひとつ成果を出しませんでしが、生活は幸福でした。 また、高い教養をもつアルベルトの芸術品コレクションが世に残っています。 その文化遺産を納めたウィーンの美術館は、アルベルトの名を冠して「アルベルティーナー美術館」と呼ばれているそうです。 5女のマリア・エリーザベトはすごい美人で求婚が殺到という状態。 どこの王家に嫁ぐのかと親の期待もいっそうだったのですが、24歳のとき痘瘡にかかってしまいます。 で、一命は取りとめましたが、その美貌は一夜にして失われました。 それで、姉のマリア・クリスティーネがいるプラハの女学校に行ったそうです。 6女のマリア・アマーリエはドイツの小国プファルツ=ツヴァイブリュッケンの公子カールと相思相愛になりましたが、政略結婚で北イタリアのパルマ公フェルディナンドに嫁ぎました。 この8歳下の夫は教会の鐘を衝くことと栗を焼くことがお気に入りで、とても君主の器ではないハズレ。 で、恋人との仲を裂かれたマリア・アマーリエは頭にきて自暴自棄となり、国政をムチャクチャに。 最後はマリア・テレジアから勘当同然にされてしまいました。 その後パルマはフランス軍に占領され、マリア・アマーリエは1802年に夫が亡くなるとプラハの修道院に移っています。 3男のレオポルトは父のご領地だったトスカーナ公国の大公になり、フィレンツェを中心としたこの国の文化・経済の発展に貢献しました。 その後兄ヨーゼフの死を受けて神聖ローマ帝国の皇帝となりましたが、在位2年で死去。 名君の器だったので、惜しいですね。 10女のマリア・カロリーネはガラが悪くて無教養なナポリ王に嫁がされました。 可哀想ですね。 ただ、夫は大ハズレでも、いい子供たちに恵まれたせいか、人が思うほど不幸になったわけではなさそうです。 詳しい資料がないので断定はできませんが、本人がヤケを起こした形跡がないことだけは確かです。 でも、よく耐えましたね。 4男のフェルディナントはモデナ公国というどうでもよさそうなところの公爵になりました。 まあ、こういう小国のお殿様なら、その後の人生もそれほど大変じゃなかったと思います。 実際に住んでいたのはモデナではなくミラノでした。 そこの総督も兼任していたので。 で、ときには従者1人だけを連れて外出というおき気楽ぶりを発揮して、マリア・テレジアにお目玉をくらっていました。 そうそう、ミラノのスカラ座はこの人がいたときに、マリア・テレジアが建ててくれたものだといいます。 11女のマリー・アントワネットはご存知の通り政略結婚でフランスのブルボン家に嫁ぎました。 が、これまた夫はダメダメ。 マリア・テレジアの娘たちは本当に男運が悪いですね。 で、ルイ皇太子(のちのルイ16世)があまりにスカだったので、マリー・アントワネットの心はインテリのスウェーデン人フェルセン伯爵に。 ただし、フェルセンはまじめな人だったので、恋人というよりも親友であり続けたようですね。 最後はフランス革命後に処刑されたマリー・アントワネットですが、フェルセンに出会えたことは唯一の救いといえるでしょう。 もっとも、フランスの民はマリー・アントワネットとルイ16世のおかげで大迷惑でしたが。 最後に、5男マクシミリアン・フランツは息子たちの中で最もデキが悪かったので、子供のうちから聖職者になるための教育を受け、ケルンの大司教になりました。 4男のフェルディナントと同様、これは気楽でいいですね。 以上を見ていると、親の期待を受けなかった子供のほうが、幸福な人生を送る確率は高いようです。 「親の期待は愛情の裏返し」という人もいますが、そんな無責任な愛情は百害あって一利なしですね。 余計な期待で子供を潰すより、ある程度好きなようにさせてあげながら、黙ってそれを見守ってあげる大らかな愛情のほうがいいでしょう。 凡人には難しいことですが。 それから、資産や力のある家との縁談も、本当に幸福につながるのかどうか、一度考えてみる必要がありますね。 「資産は人を守ってくれる」というのは幻想で、多くの場合は「人が資産の番兵になる」というのが現実でしょう。 モデナみたいな小国の番兵でよかったフェルディナントは楽勝でしたけど、力量もないのにフランスという大国を押し付けられたマリー・アントワネットは気苦労が絶えなくてプッツンときてますよ。

次の

マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)

マリア 女

「愛がなければ教育は不可能である」という教育理念から、スペインに15校の学校を次々と開校。 彼女の意志を受け継いで、ブラジル、イタリア、アメリカをはじめベネズエラ、ザイール、ギニアなど世界17カ国に160校を越える姉妹校が設立されました。 日本における同修道会の教育活動は、1953年、コンセプシオン、アッセンシオン、ピラールの3人のマドレス(修道女)の来日にはじまります。 日本語や日本の風土に馴染むための期間を経て、1958年には名古屋に、日本で初めての聖マリアの無原罪教育宣教修道院、並びに聖マリア幼稚園を設立。 続いて1963年4月には、岐阜市福富201番地に聖マリア女学院高等学校を創立させるに至りました。 マドレス来日10年目にして誕生した本格的なカトリック女子高校は、県や市、スペイン本国の援助はもとより、岐阜カトリック教会の神父をはじめ、教会関係者らの協力のもと、神の祝福を受けて開校。 続いて、1987年4月には聖マリア女学院中学校を併設しました。 これは総合学園をめざす本学院にとって、本学院独自で且つ特色ある学校教育をさらに充実、推進するためのもので、教育基本法の精神に則り、学校教育法等に従い、 キリスト教精神による宗教的情操教育を基盤として中学校と高等学校教育との一貫性を考慮しながら、心身の発達に応じた中等教育を施す学校として発展を遂げています。 英語と数学では、中3から高2まで、一人ひとりの習熟度に合わせた授業を行っています。 特に高1・高2の英特・特進コースでは2クラスを3クラスに編成し、少人数教育で徹底的にサポートします。 また、全教室に電子黒板を完備。 放課後の7・8限授業では、大学受験に必要な問題演習力を行います。 センター試験や大学入試(2次試験)対策講座を各90分間実施。 中学では希望者を対象に、実力テスト前に発展内容の演習を実施します。 第1・3・5土曜日は出校日としており、総合的な学習(学年行事)と授業を実施します。 また、休校日の土曜日にも、希望者対象の土曜補習を行っています。 一人ひとりの学習意欲向上を目指し、中学生は補充・質問会、高校生は補習・質問会を実施します。 苦手内容の克服や発展内容の理解に努め、6年間きめ細かくサポートします。

次の