坂本 龍馬 エピソード。 精神科医が分析する坂本龍馬=ADHD説…幼少時は夜尿症で愚鈍、いじめられっ子は本当か

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永遠のヒーロー!坂本龍馬 出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より 龍馬の活躍 ではまず、龍馬が日本史に与えた影響と活躍を確認してみましょう。 薩長同盟の仲介 坂本龍馬の活躍と言えば、まずこれを外す訳にはいきません。 薩長同盟です。 龍馬は、幕府の『勝海舟』が主催する海軍操練所で学んでいた経験があります。 その航海に関する知識、経験を評価した薩摩藩からの出資により、 『亀山社中』が誕生しました。 この『亀山社中』は、日本初の株式会社です。 そのころ、雄藩である薩摩と長州は対立しており、戦争でドンパチするような犬猿の仲。 特に長州は薩摩(や会津)の影響で、朝敵にされた経緯があり、薩摩を非常に憎んでいました。 しかし、日本を近代化させるためには、長州、薩摩の協力は不可欠と判断した龍馬が動きます。 そこで、龍馬は当時の長州と薩摩が抱えていた悩みに着目します。 長州は度重なる戦争で兵器が足りない。 一方の薩摩は米が足りない。 なら長州が薩摩に米を売り、薩摩が長州に兵器を売る。 持ちつ持たれつの関係を築き、長州と薩摩を同盟に導く! この時、両藩の仲介役として活躍したのが亀山社中であり、坂本龍馬なのです。 薩長同盟が実現したことで、歴史は明治維新に向けて一気に加速していきます。 言い換えるなら、薩長同盟とは『物流』によって成立した同盟とも言えます。 龍馬って『脱藩浪士』とか言われたりしますが、実際は亀山社中を仕切っていた商売人です。 つまり、薩長同盟は『物流』とか『商売』で成立した同盟なのです。 これが龍馬の面白いところです。 一般的には、同時代の西郷隆盛とか、桂小五郎とかと同じ括りで『維新志士』に括られがちですが、本質的には、ちょっと立ち位置が違う人物なんですね。 西郷さんとかは、普通に軍事力とか政治力で国を変えようとしましたが、龍馬は『商売』で国を動かそうとしていたんです。 なお、よく言われる話ですが、薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎の会談の席に龍馬も同席しており、意地を張って口を開かない両者に対し、龍馬が一喝して会談が成立したという説は、後世の創作とされています。 (その事実を示す史料が無いため) 大政奉還の原案『船中八策』 さらに龍馬の実績として広く知られているのが 『船中八策』です。 船中八策とは、新しい日本の国家方針を示したものです。 船中八策は、龍馬が夕顔丸という船の中で、後藤象二郎に語ったものだと言われています。 内容はこんな感じです。 大政奉還• 上下両院の設置による議会政治• 有能な人材の政治への登用• 不平等条約の改定• 憲法制定• 海軍力の増強• 御親兵の設置• 金銀の交換レートの変更 これが、後に明治維新を決定づける『大政奉還』の原案であるとされ、龍馬の評価を押し上げています。 ですが、船中八策は後世の捏造であるとの見方が強いのが現状です。 また、船中八策で示した内容は、当時から同様の案を唱えていた人も多く、龍馬独自の発案では無いとも言われています。 龍馬が人気者になった理由 龍馬が歴史的な活躍は、この2つくらいです。 と言うか、特筆すべき活躍は『薩長同盟』くらいです。 では、なぜ龍馬が日本史の人気者になったのか見ていきましょう。 日露戦争の勝利は龍馬の影響? まずは、これです。 近代化したばかりの日本が、大国ロシアと激突した日露戦争。 日本海海戦では、秋山真之や東郷平八郎の活躍で、ロシアのバルチック艦隊を蹴散らすなど、日本が大勝利した戦争です。 ある時、明治天皇の夢枕に龍馬が現れ、日本の勝利を保証すると予言したそうです。 それが、当時の新聞で取り沙汰され、噂が一気に広まった為、坂本龍馬の名が世間に認知されつるようになります。 小説『竜馬がゆく』の影響 次はコレ。 恐らく、これが最も影響しています。 司馬遼太郎先生の小説 『竜馬がゆく』です。 1960年代に執筆された『竜馬がゆく』は、当時爆発的な人気となりました。 この作品の竜馬は、剣術に長け、誰からも好かれる、先見の明がある、細かいことは気にしない颯爽とした青年として描かれています。 まさにスーパーヒーローです。 司馬先生の小説は、細かく史料を読み込んで執筆されており、しばしば史実と誤認される場合があります。 そこに、当時の爆発的ヒットが重なり、多くの人が『坂本竜馬という人は日本を変えたヒーローだったんだ』という認識が広まり、現在の坂本龍馬の印象に大きく影響しています。 ですが、司馬先生の作品は、あくまで小説。 司馬先生は、この作品の主人公を『坂本 竜馬』と表記しています。 実在したのは『坂本 龍馬』です。 これは、『竜馬』は創作したヒーローですよ!という司馬先生からのメッセージでもあります。 現在広まっている坂本龍馬のイメージは、司馬先生の小説の影響がとても大きいのです。 ちなみに『竜馬がゆく』は、とても面白い小説です! 司馬作品の中でもNo. 1に挙げる方も多く、司馬先生を代表する小説です。 歴史を小説として楽しむ場合は、非常におすすめです!! 日本人に好かれやすい龍馬の生涯 極めつけはコレです。 『判官(ほうがん)びいき』という言葉をご存知でしょうか? 判官びいきとは、志半ばで非業の最後を遂げた人物に対する同情です。 日本人は、この判官びいきを非常に好み、英雄視する傾向があります。 日本人に人気のある人物を例に見てみましょう。 源義経 平家を滅ぼす大活躍を見せるも、兄の頼朝に疎まれ平泉の地で非業の最後を迎える 織田信長 天下統一を目前にして、明智光秀の謀反に合い、本能寺に散る 真田幸村 生涯に渡り徳川家康を苦しめ、大阪夏の陣で家康をあと少しのところまで追いつめるも、一歩及ばず討ち取られる 吉田松陰 日本を変える為、高い志を掲げ、多くの志士を育て上げるも、安政の大獄により志半ばで斬首 西郷隆盛 明治維新を成し遂げ新政府樹立を実現するも、盟友 大久保利通と対立し、西南戦争で新政府軍に敗れ自害。 そして、龍馬もまさに判官びいきを英雄視する、日本人好みな最期を迎えます。 坂本龍馬 日本を変えるという志を持ち、薩長同盟を実現するも、幕府の刺客に襲われ、近江屋で非業の最後を遂げる。 どうでしょうか? 日本人が好きな人物って、歴史的には敗者なんです。 鎌倉幕府を開き武家政権を樹立したのは、義経ではなく 『源頼朝』です。 戦国時代に最後に笑ったのは、信長でも幸村でもなく 『徳川家康』です。 維新後、実質的に近代化を推し進めたのは、松陰先生でも西郷さんでもなく 『大久保利通』です。 源頼朝、徳川家康、大久保利通・・・ 彼らは、義経や信長や龍馬に比べると、全く人気がありません。 判官びいきを好む日本人の性質に、龍馬の生涯が見事に合致した。 これが、現在の龍馬人気を形作る、大きな理由なんです。 スポンサーリンク とは言え龍馬はカッコイイ という事で、坂本龍馬が人気になった理由を見てきました。 意外と活躍の場が少ない龍馬の実像。 そして、後世が作り上げた龍馬の印象と、日本人に好まれる龍馬の生涯。 そう考えると、龍馬って日本史にそれほど影響がなかった人物なのかな?とも感じてしまいます。 ですが、薩長同盟の功績は大きいですし、多くのドラマで描かれる龍馬の最後は、やはりグッとくるものがあります。 何より、人気が凄まじい龍馬を入り口として、日本の歴史に興味を持ってくれる人がいるのは、とても喜ばしいことです。 これまでも、そしてこれからも、龍馬にはカッコイイままでいてもらって、歴史への入り口として活躍していってほしいなって思います! 明治維新で活躍した人物たちのことを、もっと知りたい方はコチラへ.

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もくじ• 勝海舟とは? 勝海舟は1823年に江戸で生まれました。 蘭学や兵学を学んだのち長崎海軍伝習所に入り、 1860年に咸臨丸に乗って渡米しました。 1863年には 神戸海軍操練所の設立の許可を得て、それと別に彼の私塾の設立の許可も受けます。 その私塾において、彼は脱藩浪士らの教育を行なったのです。 戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い後、彼は東征軍参謀の西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現しました。 明治維新後も、海軍大輔や海軍卿、元老院議官として活躍し、1875年に辞任します。 1888年に枢密顧問官となると、意見陳述を再び活発にし、特に日清戦争や韓国への出兵に反対しました。 彼は1899年に亡くなりました。 以下の写真と年表も合わせてご覧ください。 写真 坂本龍馬(出典:) 勝海舟本人が晩年に語ったところによれば、勝と 坂本龍馬の出会いは、 龍馬が勝を斬りに行ったものの、諭されて龍馬が弟子入りしたことに始まるとされています! しかし、このドラマチックなエピソードは、どうやら勝の記憶違いから生じたようです。 実際は、当時政事総裁職を務めていた松平春嶽から、勝海舟への紹介状を龍馬が受け取り、勝の屋敷を訪れたことに始まりました。 その後は、勝は龍馬をかわいがっており、龍馬も勝のために、神戸海軍操練所の設立資金集めのために奔走しました。 龍馬の脱藩の罪が問われないよう、土佐藩主・山内容堂に取りなしたのも勝のようです。 2人の出会いが日本を動かしたと言っても過言ではないでしょう。 次に、勝の残した功績について見ていきます。 勝海舟の功績 勝海舟の功績として最も大きいと言えるのが、江戸無血開城の実現でしょう。 将軍 慶喜は勝に、西から迫る官軍への対応の指揮を任せたうえで、江戸の無血開城を行なってもかまわない、という指示を出していました。 官軍との全面戦争となれば、「朝敵慶喜」の汚名は末代まで語り継がれてしまうため、勝は和平交渉の道を模索することとなったのです。 つまり、 勝にとっての相手は官軍のみならず、好戦的な旧幕臣もいたのです。 そして、覚悟を決めて臨んだ 西郷隆盛との対談により、江戸無血開城は実現しました。 これにより、 江戸は戦火から守られることとなったのです。 明治期の功績としても、海軍卿を務めるなどして日本海軍の発展に寄与したり、旧幕臣に資金援助を行なったりするなど、精力的に活動しました。 次に、勝と西郷隆盛との会談について見ていきます。 勝海舟と西郷隆盛による江戸無血開城の真相 西郷ら官軍が江戸に到着する前から、両者は使者を通じて交渉を行なっていました。 勝は、諸外国の脅威が迫りつつある状況で、 日本人同士での争いをしている場合ではないという旨を伝えており、これを受けて官軍の態度は軟化したようです。 ただ 勝は、会談が失敗すれば官軍を全滅させ、江戸の市民を避難させるという計画を立てており、相当な覚悟をしていたようです。 そして西郷との対談が始まりますが、意外にも西郷は翌日の江戸総攻撃の中止を言い渡し、今後の方針を決めていくという方向に向かいました。 敵対していても理想を同じくしており、見事に呼吸が合ったというわけですね。 ちなみに、勝が江戸と全面戦争になった場合の戦略は、ナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ戦術である焦土戦術を参考にしたと言われています。 次の章では、勝の残した名言をご紹介します! 勝海舟の名言 勝の残した名言をいくつかご紹介します。 「 事を成し遂げる者は、愚直でなければならぬ。 才走ってはうまくいかない。 「 何でも大胆にかからねばならぬ。 難しかろうが、易しかろうが、そんな事は考えずに、いわゆる無我の境に入って断行するに限る。 」 勝の、理想へのまっすぐな思いがよく伝わってくる名言ですね。 「 その人がどれだけの人かは、人生に日が当たっていない時にどのように過ごしているかで図れる。 日が当たっている時は、何をやってもうまくいく。 」 現代を生きる我々にも教訓となる言葉ですね! 次の章からは、勝に関するエピソードについて見ていきます。 勝海舟のエピソード 勝海舟に関するいくつかのエピソードをご紹介していきます! まずは、勝が犬を苦手とした理由に迫ります! 勝海舟は犬が苦手? 勝は犬が嫌いだったようです。 その原因は、彼の幼少期に起きたある事件にありました。 学問のけいこに向かう途中で、彼は犬に襲撃され、股間をかまれたのです! これはかなりの重症だったようで、これに際した医者も助けられないのではと思うほどでした。 勝は幾日も生死の境をさまよいますが、手術は成功し、彼は助かりました。 勝は大人になってからたくさんの子どもたちに恵まれており、この事件が生殖機能に影響を与えることはなかったようです。 次に、勝の女性関係について見ていきます。 大の女好きだった? 勝はまじめそうなイメージがありますが、実は 女好きだったようです。 勝には正妻として民子がいましたが、 ほかに妾が5人いたのです! 民子との間に4人の子どもをもうけ、妾の子も多くいました。 そして、夫より長生きすることとなる正妻・民子は、腹違いの子9人を分け隔てなく育て上げたのです。 しかし、そんな民子は自らが亡くなる前に、勝のそばには埋めないようにと言い残したそうです。 次に、勝の父について見ていきます。 勝海舟の父がぶっとんでる? 勝海舟の父・ 勝小吉(こきち)は、酒と博打こそやらなかったものの、吉原遊びや喧嘩を好んだそうです。 また、剣術の腕に優れ、道場破りをするなど、かなり破天荒な人物であったようですね。 彼の甥・男谷信友は幕末期の江戸において随一の剣客だったのですが、そんな男谷も小吉には片手で負けたらしく、 小吉がある意味で幕末最強だったと見る向きすらあるのです! 勝海舟もまっすぐな性格であったようですが、そんな性格はもしかしたら父・小吉の強い遺伝子によるものかもしれませんね。 次の章では、勝海舟の子孫について見ていこうと思います。 勝海舟の子孫 勝海舟の玄孫にあたる 高山みな子氏は、現在 フリーライターとして活動しています。 高山氏は勝の娘・目賀田逸子の系譜のようです。 現在は「勝海舟の会」の顧問も務めています。 次に、勝海舟の子どもについて見ていきます。 勝海舟の子供 勝海舟には多くの子どもがいました。 しかし、正妻である民子との間に生まれた長男・小鹿と次男・四郎は、勝の存命中にいずれも若くして亡くなっています。 ほかに妾との子として、アメリカ人のクララ・ホイットニーと結婚した梶梅太郎や、男爵・目賀田種太郎と結婚した逸子らがいます。 次に、勝海舟の墓についてご紹介します。 勝海舟の墓 勝海舟の墓は、 東京都大田区の洗足池の畔にあります。 勝は生前、この洗足池の美しい風景に心を打たれ、ここに別荘を構えました。 ここに葬られたのも、勝本人の希望だったのです。 しかし前述のように、妻の民子は勝のとなりに葬られることを嫌がっていました。 次の章からは、勝海舟についてもっとよく知るための場所や作品をご紹介していきます! 勝海舟をもっと知るには? 勝海舟をもっと知るためには、勝海舟ゆかりの地や記念館を訪れたり、彼を題材にした本を読むのが良いでしょう。 まずは記念館からご紹介していきます! 勝海舟の記念館 - 2018年 2月月8日午前6時35分PST 東京都港区に、勝海舟邸跡があります。 現在は別の建物が建っており、 木碑や説明板のみがあります。 勝はここにあった住居に、1859年から1868年まで暮らしていました。 坂本龍馬が松平春嶽の紹介を受けて訪れたのも、この地だったのです。 次に、勝海舟に関連した書籍について見ていきます。 おすすめの本 勝海舟についてもっと知るための本をいくつかご紹介します。 『勝海舟』シリーズ(子母沢寛、1968年、新潮社)は、全4巻からなる文庫小説です。 勝海舟を、同時代の著名人とともに描いた大作で、これは後述する1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』の原作となっています。 『幕末三舟伝』(頭山満、2007年、国書刊行会)も、勝海舟を題材にした書籍の一つです。 「幕末の三舟」とは、幕末から明治初期に活躍した3人の幕臣(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)のことを指します。 江戸無血開城は勝ひとりによってなされたのではなく、事前に山岡が西郷隆盛と会談し、準備を整えていたのです。 高橋は、将軍慶喜の身辺警護にあたるなど、こちらも活躍を見せました。 この作品は、彼ら三人の活躍を示し、明治維新直前の動きにスポットを当てて描かれています。 次の章からは、NHK大河ドラマのうち勝海舟が登場したものを2作品ご紹介します! 大河ドラマ勝海舟 1974年の NHK大河ドラマ『勝海舟』は、前述のように、子母沢寛の同名小説が原作となっています。 勝海舟の生涯が、彼のまわりの人々との交流とともに描き出されています。 なお、勝は当初渡哲也氏が演じていましたが、病気の関係で途中で降板し、松方弘樹氏に代わっています。 大河ドラマ龍馬伝 2010年の NHK大河ドラマ『龍馬伝』においても、勝海舟は登場しました。 この『龍馬伝』はオリジナル作品で、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬の生涯を描く、というものです。 勝は武田鉄矢氏が演じており、強い「べらんめえ口調」が特徴的です。 勝は生粋の江戸っ子と言えるので、実際の話し方に近いのかもしれませんね。 まとめ いかがでしょうか。 それではもう一度、勝海舟について振り返ってみましょう。 1823年に江戸で生まれた勝は、蘭学や兵学を学び、咸臨丸に乗って渡米します。 その後神戸海軍操練所の設立許可を受けたほか、私塾において教育活動を行ないました。 彼の最大の功績と言えるのが、鳥羽伏見の戦い後に西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現したことです。 明治維新後も海軍卿などを務め、日本海軍の発展に寄与したほか、旧幕臣への資金援助も行ないました。 坂本龍馬は勝の弟子であり、松平春嶽の紹介状を受けて龍馬が勝のもとを訪れたことに始まったようです。 勝の残した名言としては、「事を成し遂げる者は、愚直でなければならぬ。 才走ってはうまくいかない。 」などがありましたね。 また、勝に関するエピソードとしては、子どものころに犬に襲撃されて重症を負ったこと、正妻のほかに5人の妾がいたこと、父の小吉が喧嘩に強い豪快な人物であったことなどが挙げられます。 勝の子どものうち、正妻との間に生まれた男子は若くして亡くなってしまいましたが、他の系譜で勝の血統は受け継がれていき、勝の玄孫にあたる高山みな子氏は現在フリーライターとして活躍しています。 勝海舟の墓や記念館は東京都大田区に、勝海舟邸跡は東京都港区にそれぞれあります。 また、勝について知ることのできる作品としては、書籍では『勝海舟』や『幕末三舟伝』が、NHK大河ドラマとしては『勝海舟』や『龍馬伝』がありましたね。 勝を取り上げた作品はこのほかにもいろいろあるので、ぜひ探してみてください!.

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坂本龍馬の生涯とは?身長や刀、年表を含めて詳細に解説!

坂本 龍馬 エピソード

年表 西暦(年齢) 1835(1歳)土佐の郷士・坂本八平の次男として生まれる。 1846年(12歳)楠山塾に入るもすぐに退学。 母の幸が死去。 1848年(14歳)日根野道場に入門する。 1853年(19歳)江戸へ遊学、千葉定吉の道場に入門。 佐久間象山塾に入学し、砲術を学ぶ。 1861年(27歳) 武市半平太 たけち・はんぺいた率いる土佐勤王党に参加する。 1862年(28歳)土佐藩を脱藩する。 勝海舟の門下生となる。 1865年(31歳)亀山社中(のちの海援隊)を組織する。 1866年(32歳)薩長連合を 斡旋 あっせんする。 寺田屋で襲撃される。 1867年(33歳)船中八策を起草する。 いろは丸事件が起こる。 近江屋で暗殺される。 坂本龍馬の生涯 龍馬の幼少時代 坂本龍馬は土佐の 郷士 ごうし、坂本家の次男として生まれました。 二男三女の末っ子で、少し甘やかされて育ったようです。 もともと坂本家は、豪商・ 才谷屋 さいたにやの分家でした。 そのため、龍馬は約500坪もある屋敷で育ったようですよ。 母の死後は、姉の 乙女 おとめにスパルタ教育を施されます。 手荒い方法で、幼い龍馬の精神力を叩き直したそうです。 龍馬がそんな乙女に送った手紙の中にある、 「日本を今一度せんたくいたし申候」という言葉は非常に有名です。 才能が開花 龍馬は19歳のとき、剣術修行のために江戸へ遊学することになります。 その年の6月、 ペリーが黒船に乗って浦賀へやってきました。 大パニックとなった江戸の地で、龍馬は過激な 尊皇攘夷という思想に触れることになるのです。 27歳の頃、武市半平太が江戸で結成した 土佐勤王党に参加します。 土佐勤王党とは、尊皇攘夷を掲げてできた組織です。 翌年、龍馬は土佐藩を脱藩し、勝海舟の門下生となりました。 この頃から、 交渉人・龍馬としての才能が発揮されるようになります。 薩長同盟の成立 31歳の頃、のちに海援隊となる 亀山社中を結成し、翌年には 薩長同盟を成立させました。 それまで仲が悪かった薩摩藩と長州藩に対して、現実的な条件を提示したのです。 その条件とは、 亀山社中が薩摩藩名義で兵器を調達し、当時、幕府ににらまれ表立って兵器を買えなかった長州藩に転売、 その代わりに米が足りていない薩摩藩へ長州が米を送る というものでした。 2つの藩は意地を張り合っており、歩み寄らせるのは大変だったそうです。 しかし中岡慎太郎とともに、龍馬はついに説得に成功します。 その薩長同盟こそが、倒幕の原動力となっていくのです。 大政奉還をとなえるも直後に暗殺 また1867年6月、長崎から兵庫へと向かう船の上で、 土佐藩の 後藤象二郎 ごとうしょうじろうらと大政奉還策について話し合います。 その際、海援隊士・ 長岡健吉 ながおかけんきちに 「船中八策」を書き留めさせました。 この船中八策は、新政府の構想を提示したものです。 内容としては、大政奉還、議会の設置、憲法の制定などが書かれていました。 しかし、これは龍馬独自のアイデアではなく、 幕臣の 大久保一翁 おおくぼいちおうや儒学者の 横井樟南 よこいしょうなんの影響を受けていると言われています。 10月3日、後藤象二郎はこれに基づいた 「大政奉還建白書」を、土佐藩の名で将軍・徳川慶喜に提出します。 そして1867年10月15日、ついに大政奉還が実現するのです。 しかし大政奉還からわずか1ヶ月、龍馬は京都河原町の 近江屋にて、何者かによって暗殺されます。 京都見廻組の犯行が有力視されていますが、いまだに真相ははっきりしていません。 ともに襲撃された中岡慎太郎とともに、京都の地で今も眠っています。 坂本龍馬にまつわるエピソード 勝海舟を斬りに行くも説得された・・・のは嘘? 龍馬には、 勝海舟との有名なエピソードがあります。 勝海舟は当時、軍艦奉行並という幕府の役職についていました。 尊王攘夷派からは開国派とみなされ、常に暗殺の危機にさらされていたといいます。 ですが勝の考え方は、海防を強化して外国に対抗できる力をつけようというものでした。 龍馬は勝海舟を斬りにいったものの、逆に説得されてしまい、弟子入りをしたと言われています。 というのも、勝海舟の 『 追賛一話 ついさんいちわ』には、そのように記されているからです。 しかしこの話は、勝の 思い違いではないかと言われています。 また勝海舟には大言壮語なところがあったそうなので、話を大きくしたのではないかとも言われます。 龍馬は勝海舟を斬りに行ったのではなく、海軍について話を聴きに行ったのではないかと推測されているのです。 ですが最終的に勝海舟が龍馬を気に入り、 勝の下で海軍の技術を学ぶことになったのは事実です。 亀山社中の給料は安かった!? 海援隊は土佐藩公認の組織でした。 ですが、その前身である亀山社中は龍馬の私的な組織です。 当初は亀山社中ではなく、単に「社中」と呼ばれていたそうです。 亀山社中は海運・海軍・商取引の機能を持った、 日本初の 株式会社とされています。 株式会社とは、出資した人と経営する人が別々の仕組みを持つ会社のことです。 龍馬は、薩摩の 小松帯刀 こまつたてわきと西郷隆盛に話を持ち込み、 設立のための資金を出してもらったといいます。 のちに外務大臣となった陸奥宗光も亀山社中のメンバーでした。 そして月給は隊長の龍馬から、いわゆる平社員まで3両2分の一律だったといいます。 その当時、新選組の隊員は10両、局長の近藤勇に至っては月給50両だったそうです。 亀山社中のお給料は、高くはなかったと言えそうですね。 日本初の新婚旅行をしたのは龍馬 1866年1月21日、薩長同盟が成立しました。 そして、その2日後である23日、龍馬は京都の寺田屋で襲撃されます。 妻・お 龍 りょうのおかげで命は助かりましたが、龍馬は両手の指に深い刀傷を受けます。 薩摩藩に保護された龍馬は、お龍とともに薩摩の船で鹿児島まで 湯治 とうじに向かいました。 これが 日本初の 新婚旅行だったと言われています。 高千穂峰の山頂で 天の逆鉾 あまのさかほこを抜いてみたり、 ピストルで鳥を撃ち落としてみたりと、二人で楽しい時間を過ごしていたようです。 きょうのまとめ 今回は坂本龍馬について、簡単にご紹介しました。 坂本龍馬は、.

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