無名草子。 無名草子『清少納言』(1)(2)現代語訳

無名草子(むみょうぞうし)とは

無名草子

三 文 又此の世にいかでかゝることありけむとめでたく覺ゆることは、文こそ侍れな。 枕冊子に返す返す申して侍るめれば、ことあたらしく申すに及ばねど、猶いとめでたきものなり。 遙かなる世界にかき離れて、幾歳あひ見ぬ人なれど、文というものだに見つれば、たゞ今さし向ひたる心地して、なかなかうち向かひては思ふ程も続けやらぬ心の色もあらはし、いはまほしきことをもこまごまと書きつくしたるを見る心地は、めづらしく、うれしく、あひ向かひたるに劣りてやはある。 つれづれなる折、昔の人の文見出でたるは、たゞその折の心地して、いみじくうれしくこそ覺ゆれ。 まして亡き人などの書きたるものなど見るは、いみじくあはれに、歳月の多く積りたるも、たゞ今筆うちぬらして書きたるやうなるこそ返す返すめでたけれ。 なにごともたゞさし向ひたる程の情ばかりにてこそ侍るに、これはたゞ昔ながらつゆ變ることなきもいとめでたき事なり。 いみじかりける延喜、天曆の御時の舊事(ふるごと)も、、天竺のしらぬ世の事も、この文字といふものなからましかば、今の世の我らがかたはしも、いかでか書き傳へましなど思ふにも、猶かばかりめでたきことはよも侍らじ。 」といへば、 <現代語訳> 三 手紙 手紙というものは、どうしてこのようなものがこの世にあるのだろうと思われるほどに素晴らしい。 『』に繰り返し書かれているので、また改めて言うことでもないのだが、やはり本当に素晴らしい。 遠いところに離れてしまって、何年も会っていない人でも、手紙さえ読めば、まさに今向かい合っているような気分になる。 会っていてはかえって思うほどには言葉を重ねることのない心情をあらわにして、言いたいことを細々と書いてあるのを読む心地というのは、愛しく、嬉しい。 どうして直接会うことよりも劣っているなどということがあるだろうか。 退屈なとき、昔知り合った人の手紙が出てくると、受け取ったときの気持ちが甦って、とても嬉しく感じられる。 まして亡くなった人の書いたものであれば、とても情趣が深くて、たった今筆を墨でぬらして書いたようなのも、返す返すも素晴らしいものだ。 どんなことでも、ただ対面している間だけ感じることばかりだというのに、これは、まったく昔のまま、露ほども変ることがないというのも、とても素晴らしい点である。 たいへん良かったという延喜、天暦の時代の出来事も、中国やインドといった知らない世界のことも、現代のわたしたちの些細な数々であっても、この文字というものがなければ、どうして書き伝えることができるだろうと思うにつけても、やはりこれほど愛すべきものはあるはずがないと思う。 」と言えば、 jorge-luis-borges.

次の

無名草子(むみょうぞうし)とは

無名草子

もしも『無名草子』が、朝を迎えたとたん、あたかも『千夜一夜物語』の一夜のように終わってしまったら、『無名草子』はこれほど興味深くなかったはずである、と。 しかし『無名草子』が終わるのは朝が訪れたからではなく、テクストの目的は果たされたからである。 女性を論じるためのテクストで男性の問題に話題を転じたことで、テクストの不可能性にぶち当たったからである。 夢幻能の霊的な存在がふと姿を消すように、女房たちも、好き放題に読者を翻弄してきた老尼も、跡形もなく消え去ってしまう。 だが『無名草子』は終わらない。 女房たちの議論は、読者たちのあいだにコミュニケーションの場を移し、無期限に継続されてゆくことになる。 そのコミュニケーションを支えるのは、女房の場合であっても読者の場合であっても同じである。 すなわち過去のテクストの蓄積であり、間テクスト性であり、鎌倉初期という時代の世界観である。 『無名草子』が終わらないのは、『千夜一夜物語』が終わらないことと大きくは違わない。 ボルヘスは『七つの夜』のなかで『千夜一夜物語』に言及しながら、「夜の語り部たち」(confabulatores nocturni)という美しい言葉を紹介している。 夜という非日常の時間は、ひとつの世界が亡びる時間でもある。 語り部たちは新たな世界が生れる夜明けが訪れるまえに、世界を物語のなかに閉じ込めてしまう。 そして再び夜が来ると、また同じことが繰り返されるのだ。 この無限の、そして夢幻の営みは、まさに文学の営みそのものを表象してはいないだろうか。 『無名草子』を興味深いものにしているのはテクストの内と外の境を取り払おうとするその性質にあるのだが、そこは女房たちが、そして読者たちが、自由に往来する言葉の世界である。 女房たちは和歌や『源氏物語』を読み、そこから得たものを伝えるために人を呼ぶ。 集まった人々は自らの考えを発信する。 発信することは詠むことに他ならない。 そして読むと詠むの往還は、やがて言葉の力を解放し、大いなる意味を喚ぶのだ。 筆者は十ヶ月にわたって『無名草子』というテクストを逍遙してきたが、それはひとつの軌跡を後に残すに過ぎない。 そしてそれは次の夜に『無名草子』を訪れる新たな読者の足跡とは、おそらく交わることがないのである。 最後に紹介する画像は、アントワーヌ・ガランが『千夜一夜物語』を翻訳するために利用した十五世紀シリアの手稿である。 おそらくアラビア文字は、日本語を除いて最も絵画に近い文字ではないだろうか。 まさに連綿体と呼ぶべきその筆致は、内容だけでなく、いかに文字を記すかという行為そのもののレベルでも、少なからぬ意味を内包しているように思われる。 余白を取り囲むようにして書き込まれた第二の文字群は、他でもなく、物語に入り込もうとする読者たちの影であろう。 * さて、評論エセーという体裁によりかかり、筆者はこれまで気ままに論を進めてきたが、読者の便宜のために、最低限の文献を示しておきたい。 残念ながら岩波文庫に入っていた『無名草子』は、現在新刊での入手が困難である。 単行本としては、『校注 無名草子』(笠間書院)や日本古典集成(新潮社)のものがある。 ただ、少々値は張るが、新編日本古典文学全集に入っている『松浦宮物語 無名草子』(小学館)が、現時点では最も手に取りやすく、注釈などの内容も充実していると思われる。 『無名草子』は研究書も多くない。 ひとつ挙げるとすれば、複数の研究者で組織された「『無名草子』輪読会」による『無名草子 注釈と資料』(和泉書院)がある。 本文と注釈に加えて、当時の時代背景や引用されているテクストについての解説も豊富だが、こちらも新刊での入手は困難である。 近年の論文では、中村文「『無名草子』冒頭部の構想」(『埼玉大学紀要人間学部篇』第5号、2005)が、テクストの構造をよくまとめて示唆に富んでいる。 また本稿では文学への理論的なアプローチも積極的に利用してきたが、それらの理論については、『ワードマップ 現代文学理論』(新曜社)が入門書としては最適だろう。 そこで論じきれなかった部分を補いつつ、より幅広い読者を想定して筆を運んできたが、かえって万華鏡のようなテクストに迷い込み、帰り道を見失った感がなくもない。 しかしそれもまた一興である。

次の

無名草子「清少納言」原文と現代語訳・解説・問題|物語評論

無名草子

もしも『無名草子』が、朝を迎えたとたん、あたかも『千夜一夜物語』の一夜のように終わってしまったら、『無名草子』はこれほど興味深くなかったはずである、と。 しかし『無名草子』が終わるのは朝が訪れたからではなく、テクストの目的は果たされたからである。 女性を論じるためのテクストで男性の問題に話題を転じたことで、テクストの不可能性にぶち当たったからである。 夢幻能の霊的な存在がふと姿を消すように、女房たちも、好き放題に読者を翻弄してきた老尼も、跡形もなく消え去ってしまう。 だが『無名草子』は終わらない。 女房たちの議論は、読者たちのあいだにコミュニケーションの場を移し、無期限に継続されてゆくことになる。 そのコミュニケーションを支えるのは、女房の場合であっても読者の場合であっても同じである。 すなわち過去のテクストの蓄積であり、間テクスト性であり、鎌倉初期という時代の世界観である。 『無名草子』が終わらないのは、『千夜一夜物語』が終わらないことと大きくは違わない。 ボルヘスは『七つの夜』のなかで『千夜一夜物語』に言及しながら、「夜の語り部たち」(confabulatores nocturni)という美しい言葉を紹介している。 夜という非日常の時間は、ひとつの世界が亡びる時間でもある。 語り部たちは新たな世界が生れる夜明けが訪れるまえに、世界を物語のなかに閉じ込めてしまう。 そして再び夜が来ると、また同じことが繰り返されるのだ。 この無限の、そして夢幻の営みは、まさに文学の営みそのものを表象してはいないだろうか。 『無名草子』を興味深いものにしているのはテクストの内と外の境を取り払おうとするその性質にあるのだが、そこは女房たちが、そして読者たちが、自由に往来する言葉の世界である。 女房たちは和歌や『源氏物語』を読み、そこから得たものを伝えるために人を呼ぶ。 集まった人々は自らの考えを発信する。 発信することは詠むことに他ならない。 そして読むと詠むの往還は、やがて言葉の力を解放し、大いなる意味を喚ぶのだ。 筆者は十ヶ月にわたって『無名草子』というテクストを逍遙してきたが、それはひとつの軌跡を後に残すに過ぎない。 そしてそれは次の夜に『無名草子』を訪れる新たな読者の足跡とは、おそらく交わることがないのである。 最後に紹介する画像は、アントワーヌ・ガランが『千夜一夜物語』を翻訳するために利用した十五世紀シリアの手稿である。 おそらくアラビア文字は、日本語を除いて最も絵画に近い文字ではないだろうか。 まさに連綿体と呼ぶべきその筆致は、内容だけでなく、いかに文字を記すかという行為そのもののレベルでも、少なからぬ意味を内包しているように思われる。 余白を取り囲むようにして書き込まれた第二の文字群は、他でもなく、物語に入り込もうとする読者たちの影であろう。 * さて、評論エセーという体裁によりかかり、筆者はこれまで気ままに論を進めてきたが、読者の便宜のために、最低限の文献を示しておきたい。 残念ながら岩波文庫に入っていた『無名草子』は、現在新刊での入手が困難である。 単行本としては、『校注 無名草子』(笠間書院)や日本古典集成(新潮社)のものがある。 ただ、少々値は張るが、新編日本古典文学全集に入っている『松浦宮物語 無名草子』(小学館)が、現時点では最も手に取りやすく、注釈などの内容も充実していると思われる。 『無名草子』は研究書も多くない。 ひとつ挙げるとすれば、複数の研究者で組織された「『無名草子』輪読会」による『無名草子 注釈と資料』(和泉書院)がある。 本文と注釈に加えて、当時の時代背景や引用されているテクストについての解説も豊富だが、こちらも新刊での入手は困難である。 近年の論文では、中村文「『無名草子』冒頭部の構想」(『埼玉大学紀要人間学部篇』第5号、2005)が、テクストの構造をよくまとめて示唆に富んでいる。 また本稿では文学への理論的なアプローチも積極的に利用してきたが、それらの理論については、『ワードマップ 現代文学理論』(新曜社)が入門書としては最適だろう。 そこで論じきれなかった部分を補いつつ、より幅広い読者を想定して筆を運んできたが、かえって万華鏡のようなテクストに迷い込み、帰り道を見失った感がなくもない。 しかしそれもまた一興である。

次の