俺ガイル 感想。 【ラノベ】『俺ガイル』完結【ネタバレ感想】

俺ガイル3期1話の感想!5年ぶりの小町ママにバブみを感じる!

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葉山の台詞の意味とは? 「それはたぶん、俺じゃなくて……」 一色いろはの告白を葉山は断る。 「いろはの気持ちは素直に嬉しい。 でも違うんだ。 それはたぶん……」の比企谷への台詞、「たぶん……」の先が語られることはない。 葉山は何を言いたかったのだろうか。 端的に言えば「それはたぶん本物じゃない」と言ったところだろうか。 葉山は「みんなの葉山隼人」を演じている。 葉山が本当は何を考えているのか、葉山の本質はどこにあるのかを誰も知らない。 洞察力に優れた比企谷でさえわからずにいる。 一色いろはは「みんなの葉山隼人」に対して告白したのであって、葉山の本質の部分を理解して好意を抱いたのではない。 おそらく、そういうことを言いたいのだと思う。 「君はすごいな、そうやって周りの人間を変えていく」 後に一色いろは本人から語られるように、いろはは比企谷の「本物が欲しい」に影響されて告白を断行したらしい。 そのことを葉山が知っていたかどうかはわからないが、少なくとも葉山の目には比企谷が一色いろはを変えたのだと映っているようである。 また、これは葉山の行動原理が「現状維持と停滞」であることの自虐にもなっていると考えることができる。 「君を褒めるのは、俺のためだ」 なぜ比企谷を褒めることが葉山のためになるのだろうか。 第4話で葉山は比企谷に「君が誰かを助けるのは、誰かに助けられたいと願っているからじゃないのか」と問うたことからわかることは、逆に「葉山が誰かを助けるのは、自分が助けられたいから」であると推測された。 であれば、葉山は比企谷を褒めることで、自分が比企谷に助けられたいと思っているのではないか。 比企谷には自分を助けるだけの能力があると葉山は感じている。 何から助けられてどうなりたいと思っているのかはまだわからない。 一色いろは「先輩……、荷物超重いです……」 比企谷と一色いろはが二人きりになることについて、雪ノ下と由比ヶ浜が嫉妬するどころか推奨さえしていることで、比企谷を取り巻く恋模様において一色いろはは殆ど関係ないことが端的に示されているように思う。 少なくともノーマークであり、そうであるならばダークホースである。 「責任、取ってくださいね……?」いつものいろはす。 問題を乗り越えた結果、長い会議へのカウンター 比企谷「問題はあの会議にある。 意見はまとめるが、その実、誰も決定は下していない。 だから、そういう馴れ合いを排除したちゃんとした会議をしよう。 反対も対立も否定もする。 勝ち負けをきっちりつける。 そういう会議を」 クリスマス合同イベントの停滞は、第7話までの奉仕部の停滞のメタファーであった。 奉仕部の問題を解決できないから、クリスマス合同イベントの問題も解決できない、という構図になっている。 第8話、第9話を経て比企谷たちは各々の問題を解決した。 その手法を用いてクリスマス合同イベントの会議に臨むという流れである。 第8話で奉仕部は「反対、対立、否定」をして「馴れ合い」を排除した結果、停滞を乗り越えた。 第9話で一色は葉山に告白をすることで「勝ち負け」がきっちりとついた。 だから比企谷はこの提案をすることができるし、一色いろはも比企谷の提案に迷いなく乗ることができる。 これを契機に一色いろはは生徒会長として大きな成長を遂げる。 「わたし的に、しょぼいのってやっぱちょっといやかなーって」という一色いろはの台詞は本心によるものかどうかはわからない。 ただ、いろはの行動様式として、大義名分を個人的な理由に落とし込んで他人に働きかけるという傾向があることは覚えておいて損はないだろう。 奉仕部三人の台詞の意味 比企谷の自戒 比企谷「自分はできると思い上がってたんだよ。 だから、間違っても認められなかったんだ。 自分の失敗を誤魔化したかったんだろう。 そのために策を弄した、言葉を弄した、言質を取って安心しようとした。 間違えた時、誰かのせいにできたら楽だからな」 相手の高校に言っていると同時に比企谷自身への自戒の台詞でもある。 玉縄たち海浜総合高校は皆の話し合いによって物事を決めようとしている。 話し合いによる合議は一見良いことのように思える反面、一人ひとりのリスク分散を志向するあまりに進捗しないというデメリットがある。 誰もが責任を取りたくないし意見を否定されて負け犬にもなりたくないからポジティブな意見を積み重ねるだけ積み重ねて、結局会議は進まない。 比企谷は生徒会長選挙の一件で明らかに間違えた。 その理由は、責任を分散するために他人に理由を与えてもらって動き出したからである。 生徒会長選挙後も間違い続けた。 それは間違いを認められずに、上滑りするだけの言葉を弄して誤魔化し、馴れ合いに終始していたからである。 第8話、「二人の言ってること全然違うもん」と由比ヶ浜は否定する。 それは比企谷の「自分だけが悪い」という態度、雪ノ下の「自分は悪くない」という態度への否定であり、それまで奉仕部を支配してきた「馴れ合い」という肯定に対する否定である。 否定によって奉仕部は意志を取り戻した。 だから比企谷はここで会議のやり方を否定するのである。 雪ノ下の自戒 雪ノ下雪乃「曖昧な言葉で話した気になって、わかった気になって、何一つ行動を起こさない。 そんなの前に進むわけがないわ。 何も生み出さない、何も得られない、何も与えない。 ただの偽物」 同様にして雪ノ下の台詞も、カタカナ言葉を弄した空虚な会議への非難であると共に自身への自戒が込められている。 第5話の「わかるものだとばかり思っていたのね」という台詞に象徴されるように、雪ノ下は他人に何も働きかけることなく自分のことをわかって欲しいと駄々をこねていたに過ぎない。 しかし第8話での和解を経て、今までの自分の態度では物事はどこへも進まないし、何も生み出さないと気づいた。 比企谷が言った「本物」という言葉と対称となる「偽物」という言葉が用いられているのが象徴的である。 また、これまでは自分ひとりで背負い込んで物事を解決していたところを、ここでは相手にきちんと言葉を伝えて解決に辿り着こうとしているところに成長の証がある。 由比ヶ浜の仲裁 由比ヶ浜「無理に一緒にやるより、二回楽しんでもらえるって思ったほうが良くない? それぞれの学校の個性とか出るじゃん。 どうかな?」 由比ヶ浜はいつも通りである。 比企谷と雪ノ下の内に向かうような難解な主張を、豊かな感情を持ってわかりやすく相手に伝えている。 奉仕部は由比ヶ浜が良き潤滑油となっていることを示す象徴である。 雪ノ下雪乃「あなたの依頼」とは何か? 雪ノ下雪乃「まだ依頼は終わっていないでしょう。 あなたの依頼、受けるって言ったじゃない」 雪ノ下雪乃の言う「あなたの依頼」とは言うまでもなく比企谷の「本物が欲しい」のことであろう。 雪ノ下はこれまで「依頼」には関心があったが「人」には興味がなかった。 それがここに来て、人ときちんと向き合うことができるようになりつつあることの証左のように思う。 比企谷の言う本物の手掛かり 比企谷のモノローグ「もしも、願うものを与えられるのなら、欲しいものがもらえるのなら、やはり俺は何も願わないし、欲しない。 与えられるものも、もらえるものも、それはきっと偽物で、いつか失ってしまうから。 だからきっと、求め続ける」 比企谷の言う「本物」の手掛かりが「偽物」という対極の表現によって端的に表されている。 それによれば本物とは「与えられるものではなく、求め続けて得られるもの」であり且つ「ずっと失わないもの」である。 ここまでの補足情報を箇条書きで ・この第10話のクリスマス合同イベントの成功までが原作9巻での話である。 この第10話に関しては要点だけを掴んだやや駆け足な展開となっている。 原作では奉仕部として会議に臨むための戦略や比企谷の思考(地の文)で詳しく語られており、鶴見留美の問題解決もきちんと描かれているので、併せて読んでみてもかなり楽しめるはずだ。 後半パート 初詣〜 Bパートは原作10巻の最初100頁を約10分にまとめたものであり、映像化にあたってはかなり駆け足の展開である。 要所をかいつまんで解説して行こう。 雪ノ下雪乃「今年もよろしくね」 雪ノ下雪乃の信念として「それで壊れてしまうものなら、それまでのものでしかない」というものがあったが、ここで比企谷に「今年もよろしくね」と言っているということは、その頑固だった信念は瓦解したと見ていい。 その信念とは「今年もよろしくね」なんてわざわざ言わなくても壊れない関係のことであろうからである。 おそらく雪ノ下が自発的に誰かに「今年もよろしく(=今年もこの関係を保っていこう)」と告げるのは初めてのことなのではないかと推測される。 葉山「雪乃ちゃん」を訂正 葉山が雪ノ下雪乃のことを「雪乃ちゃん」と呼び、後に「雪ノ下さん」と訂正している。 このシーンにどのような意味が込められているのか詳しくはわからないが、学校以外では「雪乃ちゃん」と呼ぶくらいには親しいようである。 少なくとも敵対しているわけではなさそうだ。 陽乃「雪乃ちゃん、だめだよ」 雪ノ下雪乃が判断に困って比企谷の顔をちらりと窺ったのを陽乃は見逃さず「雪乃ちゃん、だめだよ」と制する。 雪ノ下雪乃が比企谷に依存しているのではないかと思わせるシーンである。 次回予告 これはきっと自分自身の本性なのだ。 だから結局手放すことができず、ただ封じ込めて見てみないふりをしてきた。 ただ自分は真実によって糾弾されたかった。 おためごかしのお道化を見抜いて欲しかったのだ。 外からこちらを見る瞳によって。 だから期待していた。 もしかすると自分のことを見つけてくれるのではないかと。 見抜いてくれるのではないかと。 真実、それは空虚な妄想でないと、どうして言い切れるのだろう。 本物なんて、あるのだろうか。 シリアスな次回予告となっている。 比企谷も含まれるが、主に葉山、陽乃、雪ノ下雪乃が独白している。 作中で葉山と雪ノ下雪乃には何らかの陰の部分が見え隠れするが、この独白に陽乃が含まれていることは注目に値する。 陽乃も何らかの呪縛を抱えていることが示唆されている。 ここの台詞は原作10巻に含まれる3つの手記を元に再構成され、提示されている。

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俺ガイル完(3期)感想・考察・解説記事まとめ【やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完(はまち3期)】

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雪乃は特別なチョコを渡したい バレンタインデーに会う予定が無いため、雪乃はチョコを八幡に渡したい。 しかし、八幡に自分で行動することはできていない。 それに加えて、渡そうにも結衣を気にして渡すことができない。 チョコレートを見た結衣が去ろうとすると不安な表情で結衣を見つめる。 陽乃が言いたかったおぞましさがここに現れている気がする。 また、部室では八幡を友達として扱っている雪乃に安堵した結衣だが、結衣とは違う特別なチョコレートを用意していたことから、結衣は実際には好きな相手として八幡を見ていたことに気づく。 これが後半で結衣がお互いに思っていることが分かると言った根拠だと思う。 つまり結衣も同じように八幡が好きなのである。 当たり前のことかもしれないが、初めて具体的にセリフとして描写された。 陽乃が言う雪乃の中にある自分 雪乃ちゃんに自分なんてあるの? 今まであたしがどうするかを見て決めてきたのに。 自分の考えなんて話せるの? 雪乃ちゃんはいっつも自由にさせられてきたもんね。 でも自分で決めてきたわけじゃない。 今だってどう振る舞っていいかわかってないんでしょ? 雪乃ちゃんは、一体どうしたいの? 雪乃は幼少期から陽乃の背中を見て比較されて育った。 陽乃が出す答えはいつも間違っていないため、その答えをいつも後追いしてきたのだろう。 だから母から自由にしていいと言われても、失敗を恐れて陽乃の真似をする。 それを今でも続けてきており、その考えを陽乃は嫌っている。 それが陽乃が雪乃に対して自分なんてあるの? と問いかけた理由だろう。 この時の陽乃の心情は非難であると同時に諦めに近いものを感じる。 雪乃を救ってくれると思っていた八幡も、自分と同じ道をたどってしまったからだろう。 過去の結衣と今の結衣 あの時のお礼。 結衣の手が震えているのは、このクッキーをバレンタインデーという日に渡すことでこの関係を踏み出さないといけないからである。 あたしの相談、覚えてる? 結衣の依頼の最初の依頼は「手作りクッキーを食べてほしい人がいるが、自信がないから手伝ってほしい」であった。 その依頼は破棄され「今度は自分のやり方でやってみる。 」と答えていた。 結衣は前日部室で、クッキーを頑張ってつくったがうまくいかなかったと話している。 翌日雪乃が家に帰った後、一生懸命作った結果なのだと思う。 雪乃が感動しているのは、自分ができなかったことをうまくやれるようになった結果だ。 自分はうまくいかない。 それを比較しているのではないか。 あたしが自分でやってみるって言って、自分のやり方でやってみるって言って。 それがこれなの。 だから、ただのお礼。 雪乃がかばんを抑えているのは自分もチョコレートを持ってきているためだ。 渡したいけど八幡に渡している人がいないから渡せなかった。 結衣がクッキーを渡すことで、雪乃は初めてチョコレートを渡すことができる。 結衣の宣言 あたしは全部欲しい。 今も、これからも。 あたし、ずるいんだ。 卑怯な子なんだ。 あたしはもう、ちゃんと決めてる。 もしお互いの思ってることがわかっちゃったら、このままっていうのもできないと思う。 あたしたちの最後の依頼は、あたしたちのことだよ。 ゆきのんの今抱えている問題、あたし答えわかってるの。 たぶんそれが、あたしたちの答えだと思う。 それで、あたしが勝ったら全部もらう。 この文章を自分なりに具体化してみる。 あたしは全部欲しい。 今 の友人関係としての奉仕部も、これから の恋人関係になった八幡も。 あたし、ずるいんだ。 どっちも諦められない卑怯な子なんだ。 あたしはもう、 これからどうするかちゃんと決めてる。 もしお互いの思ってること 八幡を好きという気持ち がわかっちゃったら、このままっていうのもできないと思う。 あたしたちの最後の依頼は、あたしたちの これからの関係のことだよ。 ゆきのんの今抱えている 自分がないという問題、あたし答えわかってるの。 たぶんそれが、あたしたちの答えだと思う。 それで、あたしが勝ったら 今もこれからも全部もらう。 雪乃が抱えている問題は自分を持っていないことである。 それを解決するためには、自発的行動する必要がある。 自分が自分でやりたいことを口にし、そのために行動して結果を得る必要がある。 では、雪乃がやりたいこととはなんだろうか。 それはまだわからないが、陽乃についてもしくは母についてだろう。 八幡との関係という可能性もあるが、おそらく家族間か葉山とのことであろう。 ずるいかもしれないけど、それしか思いつかないんだ。 ずっとこのままでいたいなって思うの。 どうかな? 雪乃の悩みを解決できると宣言したことがずるいのではないか。 雪乃に自分の意志はない。 ただ流されるままにその答えを享受してしまうことがわかっている。 それを知っているからこそ、結衣の発言はずるいのである。 あとここで、結衣は雪乃の意思を試している。 雪乃が自分からこの結衣の発言を拒否するかどうかを見ているのだろう。 ここで拒否ができるのであれば、雪乃は自分の足で進むことができる。 加えて、このままでいたいというのはどういうことだろうか。 八幡と恋人にならずこのまま3人でいようということか。 このまま結衣と雪乃は友達であり続けたいということだろうか。 これはたぶん、結衣と雪乃の関係は友達であり続けながらも、結衣が八幡と恋人となる関係を指しているのではないかと思う。 あくまでも想像だが…。 ゆきのん、それでいい? 結衣が見ていたもの 由比ヶ浜は、たぶん間違えない。 彼女だけはずっと、正しい答えを見ていた気がする。 それを受け入れてしまえばきっと楽だろう。 けれど、 結衣が見てきたものとは、雪ノ下雪乃という女の子だろう。 彼女がどういう子でどういう考えをしているのか。 それをずっと一番近くで見てきた。 だからこそ、結衣は雪乃がどう行動すれば雪乃が抱えている問題を解決できるかがわかっている。 可能性としてはふたつ。 選ばないことによる後悔を与える• 選ぶことによる自信を与える このどちらかであろうとは思う。 また、「けれど」の意味は、結衣の言葉を飲むということは、結衣をずるいと認めてしまうということになる。 自分ためでもあるが、雪乃のために行動している彼女をずるいと認めることは、人として正しいことではない。 そのため八幡は結衣の答えを否定したい。 否定することによって、彼女がずるくないということを伝えたいのだ。 八幡の出した答え 由比ヶ浜結衣は優しい女の子だ。 そう勝手に決めつけていた。 雪ノ下雪乃は、強い女の子だ。 そうやって理想を押し付けていた。 結衣はまわりのことを気にかけることができる優しい女の子で自分という軸がない。 雪乃はひとりでいることを好む女の子で自分という軸がある。 最初はそう思っていた。 しかし実際にはそうではなかった。 ただの理想の押し付けだった。 作品を読み返すと分かる何かがあるかもしれない。 それに、そんなのただの、欺瞞だろ。 曖昧な関係とか慣れ合いの関係とか、そういうのはいらない。 それが八幡の求めた関係である。 生徒会の一件で作りなおした、慣れ合いを排除した関係。 しかし現状それは失われている。 その関係を捨てて進もうという意思表示である。 馬鹿なやつだと思う。 そんなのないって知っているのに。 突き詰めてしまったら、何も手にはいらないとわかっているのに。 本音を追求した先にあるのはひとりであることだけだ。 それでは何も手にはいらないことを知っている。 曖昧な関係とか慣れ合いの関係でしか得られないものがある。 それでもちゃんと考えて、苦しんで、足掻いて、俺は。 本物が欲しいといった。 八幡が求める本物は相手を理解することだ。 欺瞞を取り除いた人間関係からしか得られないものである。 それを得るために尽力してきたのだ。 まとめ 考察を書いていて思いましたが、ここで終わりかよ!! 販売戦略的には最高ですね…。 これだけ大胆に切っているので、何かしら続きのメディアミックスはあるのだと思います。 待ちましょう。 待つしかできないので。 それとこの俺ガイル考察も今回で終わりになります。 11巻の内容もやろうかと思ったのですが、いかんせん時間がとられてしまうので…。 合ってたり間違ってたりしたこの考察ですが、みなさんの反応があったからこそ続けられました。 本当にありがとうございました。 来期のアニメも2作ぐらいは記事を書こうと思っているのでよかったら見に来てください。 本当にありがとうございました。 以上です。 また別の記事でお会いしましょう。

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俺ガイル2期13話の感想と考察と3人の依頼|やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続

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言葉への批判意識 言葉一つじゃ足りねぇよ。 本音も建前も冗談も常套句も全部費やしたって、伝えきれる気がしない。 そんな単純な感情じゃない。 たった一言で伝えられる感情が含まれているのはまちがいない。 けれど、それを一つの枠に押し込めれば嘘になる。 (中略) こんな言葉でわかるわけない。 わからなくていい。 伝わらなくても構わない。 (渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 398より) この 言語への批判意識が、『俺ガイル』の 核心部分だと思います。 疑り深い人は 「言葉」の裏を読みたくなる。 すると人の心理が見えた気がして、その人を「知った」気になる。 そうして人を「知る」と今度は心理だけではなく感情が伝わってくる。 そうするともう「うわべ」だけでは我慢できない。 だからこの終わり方は、結果だけ見れば当然の帰結だとは思います。 しかしここまでの筆致で、リアルな等身大で、絶妙な「青春ラブコメ」を書いた作品が他にあったでしょうか? 私はないと思います。 だから私は『俺ガイル』が本当に素晴らしい作品だと思っています。 今読み終わったところなので、考えもまとまっておらず、一発書きなのですが、いまここで感じていることをメモさせてください。 「言葉」という殺害行為 言語化というのは、基本的に 殺害行為です。 ある感覚、ある感情を言葉にすると、 その感覚や感情はある意味死にます。 例えば、「犬のふわふわした温かみのある触感」と書いたとき、読み手はリアルな毛並みや体温を想像するでしょうが、そこにあった本当の犬の感触を言葉だけで完全に再現することはできません。 そのように、 本当にそこにあったはずのリアルな「感覚」というのは、言葉で完全に再現することは不可能です。 だから言葉はその意味で 「殺害行為」だと言えます。 他にも例えば、「彼と彼女は恋人だ」と言えば、聞き手は各々の想像する 「恋人」という概念にその二人をおしこめるでしょう。 「恋人」は「普通」デートをするとか、キスをするとか、そういう 「恋人」という言葉の枠に二人を当てはめようとするでしょう。 でも、実際には二人はもっと特殊な関係かもしれません。 「普通の恋人たち」のようにデートはしないかもしれない、キスもしないかもしれない、傍から見れば仲が悪く見えるかもしれない…… そういう独自の関係性は、「恋人」という言葉に押し込めた途端に捨象されてしまいます。 関係を名付けてほしくなかった だから、『俺ガイル』では「普通に」告白してほしくなかった。 「普通の恋人」になってほしくなかった。 なぜなら、 『俺ガイル』で求められている「本物」というものは、言葉にできない関係性、言葉にしがたい関係性だと思っていたからです。 端的に言えば、いわゆる「誰々エンド」というのは 全くナンセンスだということです。 なぜなら「誰々エンド」という言葉で語れるくらいの関係が 「本物」のはずないからです。 八幡は絶対にそんな関係を選び取らないからです。 実際、彼らが得た関係はそんな 既存の言葉に簡単に当てはめることのできないものでした。 その証拠として、例えば一色に「お二人はどういう関係になるんですか」と聞かれたときに、「どう、なるんですかね……」、「こういうのは説明が難しいのだけれど……」と 雪乃と八幡が逡巡している場面が挙げられます。 これは照れ隠しなどでは決してなく、 言葉で説明できない関係性だということを2人も自覚していたからだと考えられます。 また、嬉しかったのは 由比ヶ浜もそのような2人の言葉にならない絶妙な関係を察知していたという点です。 由比ヶ浜はラストで「あたしの好きなひとにね、彼女 みたいな感じの人がいるんだけど」と、 「みたいな」と言っていて、彼らの関係が はっきりと「彼女」という言葉にできるものではないと察していると考えられます。 以上のように、 言葉に批判意識をもちながら、言葉にならない関係性を、「本物」を、彼ら彼女らが求めていたということを確認できた点が、最終巻で本当に良かったと思える点でした。 『俺ガイル』は共同体論である 私は『俺ガイル』は 共同体論だと思います。 人と人がどれほどの関係を結べるか、どこまで深く付き合えるか、人と人との間にどれほどの可能性があるのか、それを真摯に探究したのが『俺ガイル』だと思います。 だから、彼ら彼女らが最後まで彼らなりの「本物」を求めていたことが、私にとっては救いでした。 その点で、最終巻は本当に良かったです。 「舞台装置」? それに加えて良かったと思ったのは、陽乃の扱いです。 『俺ガイル』でずっとネックだな、と思っていたのは陽乃の扱いでした。 彼女だけが少し浮いていて、彼女だけがずっと 舞台装置っぽいなという感じがしていたからです。 「舞台装置」というのは、 陽乃が作品の都合のいいように「アンチテーゼ」として利用されていた感が大きかったということです。 しかしそれも最終巻を読み、さらに考察を深めていくことで かなり解消されたように思いました。 人間味のある陽乃 というのは、最終巻ではとくに陽乃が舞台装置ではなく、 一人の人間として機能していたと思ったからです。 「ちゃんと決着つけないと、ずっと燻るよ。 いつまでたっても終わらない。 わたしが二十年そうやって騙し騙しやってきたからよくわかる……。 そんな偽物みたいな人生を生きてきたの」 (渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 289より) このあたりに陽乃の 人間味が垣間見えていました。 しかし単純に人間味のあるところが描かれたから良かったというわけでもなく、むしろこれで、陽乃の 人間としての「底」がある程度見えてしまったという感じがしなくもありません。 というのは、これだけだと陽乃が 「うわべ」の代表格、あるいは 捻じ曲がったシスコンというふうに読めなくもないからです。 陽乃=「うわべ」の代表・捻じ曲がったシスコン 1. 「うわべ」の代表 「うわべ」の代表格というのは、 『俺ガイル』において陽乃は強化外骨格みたいな「うわべ」を駆使して、「うまくやって」生きてきた人間の代表として描かれているということです(ただもちろん彼女には「裏の顔」もあってそれゆえに彼女は苦悩しているわけですが)。 陽乃は父親の仕事を手伝う過程で、 「うわべ」をうまく使って人と良好な関係を結び、また、その 「うわべ」によって何でもできる「雪ノ下陽乃」像を構築してきたのだと考えられます。 ここにひとつ陽乃の 「底」があります。 つまり、陽乃がそうした「うわべ」だけで生きてきた人間なら、彼女は ある意味で「偽物」の人生を歩んできたわけで、そういう意味で、 陽乃は八幡の言う「本物」に近いものにすら触れたことがないと考えられるからです。 <追記 2020. 14> しかしむしろここに陽乃が「本物」を求める理由があるわけで、このことによって陽乃はより舞台装置ではなく一人の人間として描かれていると今では考えています(詳しくは参照)。 捻じ曲がったシスコン 「捻じ曲がったシスコン」というのは、陽乃が雪乃のためにわざと嫌がるような行動をとり続けているという読み(解釈)のことです。 この解釈では、陽乃には、自分の通る道を綺麗にたどる雪乃を本当にかわいいと思いながらも、 彼女に違う道を歩んでほしいという願いがあった、と読むことができます。 あるいは、「うわべ」の人生しか選べない自分を自己批判し、 それとは違う「本物」を彼女も求めていて、その「本物」の夢を雪乃に託したと読むこともできます。 どちらかというと個人的には、 陽乃も「本物」を心の底で求めていた、そしてその実現を雪乃に託したという読みの方がしっくりくる気がします。 <追記2020. 14> 陽乃の雪乃に対する感情はそんな生半可なものではないように今では思います。 なぜなら陽乃は雪乃に「偽物」の人生を突き付けられると同時に、 いわば自分の人生をまるごと否定されたようなものだからです。 だからここの読みは甘いと今は思います。 これについては追い追いアニメ俺ガイル完の考察とともに記事にするつもりです。 「雪ノ下雪乃の救済」というテーマ 雪ノ下雪乃の救済というのが後期『俺ガイル』のテーマでした。 「救済」というのは、9巻で 「いつか、私を助けてね」という雪乃のセリフに起因しています。 「いつか、私を助けてね」とはどういうことか そもそも「助けて」とはどういうことかというと、 依存してしまう自立できない私を助けてねということです(もちろん助けを他者に求めてしまう時点でむしろ依存しているわけですが)。 雪乃が依存体質であることは13巻でも陽乃から指摘がありましたが、1巻から雪乃はそのような面を見せていました。 というより、それこそが 雪乃が奉仕部を創った理由だと考えられます。 雪乃が奉仕部を創った理由 そもそもなんで雪乃が奉仕部を創ったかというと、 依存せず自立したいからだと考えられます。 ただそれはいわば隠された理由(はっきりと書かれてはいない理由)であって、彼女が言葉で言っている理由は違います。 彼女が口で言っていた理由は、「持っているもの」が損をする世界はおかしいから、 「変えるのよ、人ごと、この世界を」というものでした。 ではどういうふうに変えるかというと、 魚の獲り方が分からない人=自立できていない人に、 「魚の獲り方を教える」というやり方で「自立」をうながすのでした。 つまりみんなが 「自立」して、皆が 「持っているもの」に近くなる世界を目指していたわけです。 「持っていない」 ただそれは、 雪乃がある意味で「持っていない」ことの裏返しだと考えられます。 たしかに雪乃は何でもできます。 勉強もスポーツも、容姿も端麗。 そういう意味では「持っている」人間です。 しかし、それは 「依存」の延長線上として得てきたものです。 というのはそれらは 誰かに与えられたものを完璧にやり遂げて得たものにすぎないからです。 では誰が救われたかったのか この点で雪乃は「自立」できていないと言えます。 しかしだからこそ雪乃は奉仕部を立ち上げたと考えられます。 すなわち、雪乃は誰かから与えられたことを完璧にこなすのではなく、 自分から主体的に何かを成し遂げる経験をするために奉仕部を立ち上げたと考えられるのです。 したがって、 人に「自立」をうながしながら、本当に「自立」したかったのは雪乃の方だったのではないでしょうか。 人に救いの手を差し伸べておきながら、本当に救われたかったのは雪乃自身だったのではないでしょうか。 「別のものが欲しかった」 おそらく、生まれてからずっとなんでも完璧にこなしてきた雪乃は、それでも常に自分の上をいって何でもそつなくこなす 陽乃に コンプレックスを抱いていたのでしょう。 というよりも、 陽乃に自分のアイデンティティを奪われてきた(消されてきた)という言い方の方が正確かもしれません。 完璧にやる陽乃がいる、親から必要とされているのは陽乃だ、では自分(雪乃)の居場所はどこにあるのか……と、雪乃はそう考えていたのではないでしょうか。 そうして彼女は 「なんで私はそれを持っていないんだろうって、持っていない自分に失望」した。 だから、「別のものが欲しかった」。 そして雪乃は奉仕部を創った。 姉が持っておらず、自分だけが持っている、 雪乃自身のアイデンティティ、それが 奉仕部だったのではないでしょうか。 そのように奉仕部は、 雪乃が自立してできるのだということを示す証のようなものだったと考えられます。 救済は果たされたか? だから、 雪乃が最後に救済されるのか? ということが『俺ガイル』の1つの大きなテーマでした。 雪ノ下雪乃は「自立」という奉仕部設立当初の目的を達成出来たのか、それが1つの大きなテーマだったわけです。 では14巻で雪乃は「救われた」でしょうか? 私は 救われたと思います。 というのは、 雪乃は彼女の意志で父親の仕事を手伝いたいということを伝えたし、また、 八幡を選ぶという選択もしたからです。 父親の仕事を手伝うというのは、一見陽乃の後追いのようにも思えますが、これは 雪乃の意志だと解釈してよいのではないでしょうか。 というのは別に誰にそうなれと言われたのでもなく、彼女自身が言ったことだからです。 それよりも、「わからない」といっていた雪乃が八幡を自分で選択し、そのことを由比ヶ浜にきちんと自ら打ち明けたことは、 明確な「自立」(誰から与えられたわけでない主体的な選択)と言ってもよいのではないでしょうか。 これも一見すると、雪乃が八幡への依存を深めたように見えるのですが、「ちゃんと言うわ」と自ら気持ちを口にする選択は、依存ではないでしょう。 以上のことから、雪ノ下雪乃の救済という大きなテーマは果たされたと、今のところ私は考えています。 <追記>ここの読みは甘かったと思います。 雪乃は一時的に「救われた」に過ぎないというのが今の読みです。 <追記2019. 26>俺ガイルの結末にある意味絶望している話 わけあって、俺ガイルの結末に絶望しています。 詳しくは以下のツイートをご覧ください。 相変わらず俺ガイルの感想を見たり聞いたりしているのですが、14巻で八幡が本物を見つけたという解釈は、私の解釈から言うと絶対に違うのではないかなと思いました。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 私は「本物」は、そこに究極的に近づくことはできても原理的には到達不可能なものだと思っていて、八幡が最後にたどり着いた雪乃との関係性は、あくまで「本物」までの一過程にすぎないと考えています。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 何も言わなくても分かり合える、その関係性の一形態として、八幡は雪乃の人生を歪める許可をとろうとした。 人生を分け合った。 でもそれはそれでしかなくて、それが「本物」の到達ではない。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 大事なのはむしろその後で、その人生を分け合った関係性で、果たして「本物」に近づけるのかということ。 場合によってはその関係性は、人生を歪められた挙句他者に依存してしまう、まさに「共依存」のような関係へと堕ちてしまうこともあるだろう。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail そしてもちろん場合によってはうまく関係を構築して、「本物」に近づくこともできるだろう。 でも問題は、その「うまく関係を構築する」というのはどういうことかということ。 「本物」に近づくには果たしてどういう関係をもてばいいのかということ。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail ここに、私にはある種の絶望があって、「本物」を担保するものなんてあるのか、ひいては「本物なんてあるのだろうか……?」という疑問にたち戻らざるを得なくなった。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 「本物」なんて、あるのだろうか。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail まとめると八幡たちは「本物」に到達したわけではなく、その途上であるということに気が付いたので、そこにある種の絶望があるという話なのです。 しかしその経過が見事なのであって、またその経過自体を「青春」と名付けることもできるでしょう。 問題はやはりでは「本物」を求めた先に、14巻で八幡と雪乃がたどり着いたその先に何があるのかということです。 例えば人は「恋人」のように親密になっていろいろなことを知った後に互いを嫌いになるということもあるわけで、もちろん八幡と雪乃は「恋人」ではないのですが、では彼らが結んだある種の関係の先にももっと多くの困難が横たわっているのではないかということは思わざるを得ないということです。 終わりの始まり もしも言葉がなかったら、私たちはどういう存在になっているのだろうか。 言葉のおかげで私たちは、現にあるような存在になっている。 言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。 (ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』酒井健 訳 ちくま学芸文庫,2004 p. 470) いささか大げさかもしれませんが、『俺ガイル』はこれに非常に近いところまでいったと思います。 言葉は無力です。 言葉には限界があります。 しかし 言葉はそれが表現しようとするところに究極まで近づき、その当のものを指し示すことができます。 そこに言葉の力があります。 『俺ガイル』が「本物」という言葉で語ろうとしていたことは、そのようなものなのではないでしょうか。 <追記> 後から見返すとかなり甘いところもあったように思います。 甘いところはアニメ3期1話ごとに考察を書きながら、さらに深く考えていきたいと思います。 <俺ガイルの記事一覧> ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・.

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