巨人 対 阪神。 10.8決戦

巨人先勝で2勝 丸、岡本弾/セCSファイナル詳細

巨人 対 阪神

「決戦」に至る経緯 [ ] 最終戦の日程決定 [ ] この節の記載内容詳細については、を参照 1994年当時、セ・リーグ公式戦は各チーム26回戦総当りの130試合制で行われていた。 同年の巨人は序盤から首位を快走していた が、からにかけて8連敗を喫するなどして勢いを落とす。 対照的に中日は、優勝経験のあるを翌季からへ復帰させるプランが球団内部で台頭していたことから、前年2位で迎えた同年も(リーグ6球団中、上位3位以内)を維持していたシーズン中にもかかわらず、当時の監督であるに「来季の契約をしない」旨を内示していた。 この件が却って監督・選手ともに「最後の花道を優勝で飾ろう」と一丸となって巻き返しに出た。 からにかけては9連勝を記録し、試合終了時間の関係で「単独首位」の形となったこともあるなど、巨人を猛然と追い上げた。 なお、同監督の去就についてはを参照。 巨人と中日はとにナゴヤ球場でこのシーズン最後の対戦が組まれていたが、27日の試合は日本列島に接近していたの影響による悪天候で中止となり、予備日となっていたに順延となったが、その29日も今度は台風本体がに接近してまたも中止となり 、結局同リーグは翌に29日に中止された両チームの第26回戦を10月8日()に組み込むことを含めた「追加日程」を発表し、ここに「10. 8」の試合が日程上登場したことから、この事象が始まった。 なお、この時点で巨人と中日は66勝59敗0分(残り5試合)で並んでいた。 10月6日の試合 [ ] 上記の追加日程発表後、巨人は3勝、中日は2勝1敗でを迎えた。 巨人がで(以下「ヤクルト」)と、中日がナゴヤ球場でとそれぞれシーズン129試合目を戦ったが、試合前時点では巨人が1ゲーム差の首位で、巨人の勝利・中日の敗北で巨人の優勝決定となる状況にあった。 中日(対阪神) 先発投手・ の19勝目となる好投もあり、10-2と快勝。 中日の大量リードのまま終盤にさしかかった際、下記のヤクルト対巨人の試合経過について、球場内に報じられる前に等で状況を把握した観客を中心におおいに沸き上がったという。 巨人(対ヤクルト) 「」のうちを先発、をに起用したが、7回に槙原がに3点を浴びるなどヤクルトに4得点を許し、6-2と逆転負け。 エース・を先発に立てたヤクルト側には「痛くもない腹を探られたくない」という事情もあった。 同チームであった秦は「(4日は)中日に勝ったのに、巨人に4連敗では野球ファンに申し訳ない。 (中略)あとは8日に両チームに頑張ってもらうだけです」とコメントを残している。 試合終了時点での状況 [ ] 6日の試合が終了した時点で巨人・中日の両チームはともに129試合を消化し、勝敗数が69勝60敗で並んだ。 両チームともに残り試合は10月8日の直接対決のみとなり、この試合に勝利したチームがセ・リーグ優勝を決定することになった。 同率で並んだ2チームがレギュラーシーズン最終戦で直接対戦してリーグ優勝・日本シリーズ出場権を決めるケースはプロ野球史上初の出来事であり 、現在もレギュラーシーズン公式戦(クライマックスシリーズなどのプレーオフは除く)でこのような状況は発生していない。 当時の規則では引き分け再試合制を採用していたため、この試合が引き分けに終わった場合は再度の直接対決によってリーグ優勝を決定することになっていた。 10月6日の試合が終了した時点でのセ・リーグの順位は以下の通り。 首位から最下位までが8. 5ゲーム差に収まっている(前後の年との比較 )。 順位 球団名 勝利数 敗戦数 引分数 1位との 残り試合数 1位 中日ドラゴンズ 69 60 0 - 1 1位 読売ジャイアンツ 69 60 0 - 1 3位 66 63 0 3. 0 1 4位 62 68 0 7. 5 全日程終了 5位 61 68 0 8. 0 1 6位 60 68 0 8. 5 2 10. 8 [ ] 試合直前 [ ] チームで「追いついた」側の中日は監督の高木以下、当日も変わらず「ここまできたら勝つ」というように 、普段通りの姿勢で臨むことを決めていた。 ビジターチームで「追いつかれた」側の巨人は、球場入りを控えた当日昼に宿舎にて行ったミーティングが、監督(当時)のが選手に対して「俺たちは勝つ」を連呼するという異例のものであった。 さらに、中日の先発が予想されたを同シーズン唯一攻略した試合 のを前日に名古屋入りしてから繰り返し見せ、選手たちにイメージを植え付けた (今中は、同季ここまでの対巨人戦が5勝2敗1・2. 45 、地元の対巨人戦では11連勝中であり「巨人キラー」と呼ばれた )。 チーム内の雰囲気については後年「覚えているのは僕から見て、落合さんや原さんの方が、もの凄く張り詰めた空気を持っていたことですね。 (中略)(ミーティング後)みんな、凄く高揚してバスに乗り込んだんです」と述べている。 なお、松井が述べた球場に行くバスに乗り込む際は、報道陣やファンが多く集まり、「(人並みを)かきわけるようにして」という状態であった。 長嶋が「国民的行事」と呼んだ試合の盛り上がりは、取材に訪れた報道陣の多さや警備の厳重さにも表れた。 報道陣について今中は後年、見覚えのない顔が多く、報道陣そのものの多さに驚いたこと、さらにその接し方も取材という感じではなく、「『頑張ってね、応援してるから』まるで一人のファンのように、話しかけられる」と述べている。 球審を務めたも、後年に報道陣の多さについて述べている。 体制は過去の事例 を踏まえ、巨人が試合に勝った場合等の中日ファンの乱入に備えた厳重なものであった。 両チームが試合前練習を終えたグラウンドでは、試合開始までの間に9月のに選出された 、山本昌の表彰が行われ、18:00の試合開始となった。 当時の報道 [ ] ここでは、主に中日・巨人・試合放送したテレビ局と系列が異なる機関による当時の報道から、当時の社会的注目を中心に掲載(以下同名の段落について同じ)。 次のものからも、試合そのものはもとより球場内外の整理・警戒(を参照)、選手たち等への注目が報じられている。 なお、でが開催中でのことであった。 日本経済新聞 1994年10月7日付の紙面によると「6日のヤクルト戦直後、長嶋監督は『130試合で決着だ。 こんな試合ができる選手は幸せですよ』とコメントした」とあるが、この記事をまとめた記者は「監督ほどの英雄ぞろいでない選手たちは『幸せ』な気持ちで決戦に臨めるだろうか」と述べた。 翌日付の紙面では、1面コラム「春秋」で「巨人と中日。 (中略)(が中である)熱心なの野球ファンもうならせる堂々たる試合を見せてほしい」と述べ、日本のプロ野球にとどまらない社会的注目の対象であるようなことを述べた。 同日付の日経スポーツ面は「栄光かゼロかきょう大一番」という見出しで「客観的に見れば中日が有利と言えそうだ」とした。 なお、この記事は「槙原を先発で起用し、勝負どころで桑田を救援で使った方が得策といえよう」とも述べている。 同日付の日経(夕刊)では「DG決戦 待ち切れない ナゴヤ球場異例の11時開門」と球場周辺に人が密集して危険な状況にあったため繰上げて開門したという社会事象、場内整理の大変さとして報じた。 10月8日付の夕刊は「DG決戦ナゴヤ燃ゆ」との見出しで、「入場券を手に入れられなかったファンは、道路に立つに、必死に声を掛けていた」「署員百十人が夜通しで(繁華街等の)警戒にあたる」など、やはり社会事象、警備等の問題として報じた。 10月8日付の同紙は、総合面で「まなざし熱い舞台裏」と、監督・球場・テレビ局・関連セールの状況を報じた。 試合を放送するの関係者が過去のプロ野球での最高視聴率を「一気に更新したい」と意気込んでいる旨の内容もある。 地方紙 例えばにおいては、10月8日付の1面コラム「談話室」が「特別なファンでなくとも注目せざるを得ない」と述べて、の巨人と阪神の優勝争いと関連づけた話を記載し 、同日付夕刊が1面コラム「口笛」で「(前略)徹夜いとわぬ長蛇のファン。 見ごたえある試合をどうぞ」と述べるなど関心の高さが見られた。 スポーツ紙 (ニッカン)、(スポニチ)ともに、10月8日付のトップは数面にわたってこの試合についての記事で占められていた。 1973年阪神対巨人の最終決戦 に関連づけて、同年当時の関係者として、ニッカンは1面で(1973年当時 巨人監督)の、スポニチは2面で(同 巨人選手、1994年当時の西武監督)、(1973年当時 阪神選手)のコメントを掲載した。 試合経過 [ ] 序盤 [ ] 中日の先発投手は、上記の巨人側、さらに上記引用10月8日付日経などの新聞の多くが「今中先発」を前提に分析・予想していたが、それが的中する形となった。 巨人は槙原が先発した。 1回裏に中日は先頭打者のが右中間に二塁打を放つが、続くがを試みるも空振りし、その際に二塁走者の清水が飛び出して巨人の捕手・の送球でタッチアウト(記録は死)。 その後小森が右前安打、3番のがで一死一・二塁とチャンスを作るが、4番の大豊が二塁ゴロ併殺で無得点となった。 大豊の打球はマウンドの槙原の横を速い球足で抜けるいわゆる「ピッチャー返し」の打球だったが、二塁ベース寄りに守っていた巨人の二塁手・がこれを正面で捕球し併殺とした。 プルヒッターである大豊の打席時に一・二塁間を詰めて守るチームが多い中で敢えて二塁ベース寄りの位置で守った元木を当日のテレビ中継のをしていたとは激賞した。 この日実況を担当した(アナウンサー)は後に著書の中で「中日の1回裏の攻撃がすべてのような気がする」と語っている。 2回表に巨人がのソロと槙原の内野ゴロの間の三塁走者生還で2点を先制したが、その裏に中日は槙原に対して、4連続とのにより同点に追いついた。 巨人は、これを受けて投手を斎藤に交代。 この時、地元・中日ファンの多いスタンドは総立ちとなった。 斎藤はさらに続く無死走者一、二塁というピンチを今中の失敗(三塁、記録は投手)、一塁走者の走塁死(アウトカウントを間違えたという 等で切り抜け、その後も変化球を低めに集めて打たせてとる投球で5回を1失点に抑えた。 なお、ここで中村を刺すを投じた捕手の村田は前記の通り1回裏も小森のバントの動きで飛び出してしまった二塁走者清水を送球でアウトとし、ピンチ脱出に貢献している。 3回表、巨人は松井のバント で二塁に送った走者を落合ので還して1点を勝ち越した。 今中は、味方が同点に追いついた直後に落合にこの適時打を打たれたショックが点差、イニングにかかわらず大きかった旨を述べている。 なお、落合は3回裏に立浪のゴロを捕球の際に足を滑らせ、この回終了後負傷退場 している。 さらに巨人は、4回表に村田、の本塁打で2点を追加し、3点の点差をつけた。 今中は4回裏の打順でを送られ降板した。 中日の試合ぶりについて、は「(試合が始まり)『これはいつものドラゴンズじゃないな』とすぐにわかった。 彼らもプレッシャーを感じていたんですね」と 、も「試合前、笑顔も見られた中日ナインでしたが、いざ試合が始まってみると緊張に縛られていたのはドラゴンズのほうでした」 と振り返っている。 10月12日付(中日系列)19面12版のコラム「デスク発」は「ミスがあれだけ出れば大試合には勝てない」と評した。 中盤・終盤 [ ] 5回表に巨人は松井の本塁打で1点を追加。 これに対し中日は6回裏にの適時打で1点を返し、3点差のまま試合は終盤に入った。 巨人は7回裏からを投入した。 8回裏、中日は先頭打者の立浪が一塁にヘッドして出塁(内野安打)したものの、左肩をして負傷退場した(球団史上の位置づけ等。 走者を2人塁上に置いて「本塁打が出れば同点」という場面を作ったが無得点に終わった。 9回表、巨人は先頭打者川相の前への打球が本塁打と認められず、となり長嶋監督が抗議する場面があったが 、すぐに切り上げ 、結局追加点はなかった。 優勝決定 [ ] 9回裏二死後、小森が空振りに倒れて中日最後の打者となって、6 - 3で巨人の勝利で試合終了、リーグ優勝が決定した。 ニッカンによると、時刻は21時22分35秒であった(中断があったため、試合時間は3時間14分)。 巨人側は、プロ野球の優勝決定に際してよく見られるように、付近で監督の長嶋を胴上げした後、グラウンドをまわった。 中日側は、刊行の『中日ドラゴンズ70年史』で、「この史上初の歴史的ゲームに参加する喜びに選手たちは燃え、全国のファンは堪能した」と位置づけている。 なお、同書p. 128「巨人戦名勝負編」にはこの試合については掲載されていない。 両チームの投手起用について [ ] 「」、「」、および「」も参照 当時巨人の「先発三本柱」と称された3人は、前述10月6日の試合で斎藤が先発で6、槙原が0イニングを投げ、残る桑田は5日の試合に先発登板して8イニングを投げていた。 このうち斎藤、桑田については後述のように8日の時点で疲労が残っており、巨人の投手起用に注目が集まった が、巨人は「先発三本柱」を槙原 - 斎藤 - 桑田の順で継投させる総力戦で臨んだ。 これに対し中日は今中降板後、山本昌ら投手陣の「切り札」を温存する起用法をとった。 落合は著書『プロフェッショナル』の中でこれを「意気込みの違い」と評しているが 、山本昌は「(控え投手には)さんももいる(注:佐藤は登板した)」「僕も(ブルペンで投球練習もしたし)投げたくなかったわけじゃありません」と述べている。 なお、中日側から見た巨人の投手起用について、シーズンオフに中日の選手たちの話を聞いたは「ドラゴンズ側にとっての問題は、どこで桑田が登板するか、ということだった。 ドラゴンズの選手たちにいわせると、抑えの切り札として、桑田が最後にマウンドに上がってくるのがいやだった、という。 (中略)点差はともあれ、ゲーム終盤の、集中力を要求される場面で桑田が本来の力を発揮したとき、攻めづらくなる……。 」というエピソードを記している。 前述のように斎藤は中1日、桑田は中2日での登板となった。 登板を告げられた時の心境について斎藤は「中1日だったし、出番はないと思っていたけど、で(中略)コーチが『おい、斎藤』と。 思わず聞こえないフリをした」と述べている。 桑田は試合前夜、長嶋監督から呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」といわれていたという。 5日の前回登板時(先発)は、チームの指示で8日に備えるため、のかかった9回を回避、降板していた。 ただ、桑田は、後日、「(登板の準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった。 (中略)体は、疲れでバリバリ」と述べている。 スコア [ ] ウィキソースに の原文があります。 のとおり、両チームとも、シーズン終了時のチーム、チーム防御率は同程度であり、双方のチーム力の近接が見られる。 チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 巨人 0 2 1 2 1 0 0 0 0 6 12 3 中日 0 2 0 0 0 1 0 0 0 3 11 0• : 斎藤(14勝8敗) : 今中(13勝9敗3S) : 桑田(14勝11敗1S)• : 巨 — 落合15号ソロ(今中)、村田真10号ソロ(今中)、コトー18号ソロ(今中)、松井20号ソロ(山田)• :球審…、塁審…・・• 試合時間:3時間14分(中断:8分) 出場選手 [ ] 巨人 打順 守備 選手 1 [中] 中 2 [遊] 3 [右] 4 [一] 三 5 [三]一 6 [左] 左 7 [二] 8 [捕] 9 [投] 投 投 中日 打順 守備 選手 1 [左] 2 [二] 3 [遊] 走遊 4 [一] 5 [中] 6 [三] 7 [右] 8 [捕] 9 [投] 打 投 投 打 投 打 球場内の雰囲気 [ ] この試合での、両チームベンチ内の雰囲気について、両チームの先発投手であった今中と槙原は以下のように述べている。 (今中)あの試合は、かえってグラウンドに立っていない選手の方が元気がよかった気がします。 (槙原)自分自身はふがいない投球だったのに泣けたってのが不思議ですね。 (中略)一緒にやっているチームメイトに感動しました。 球場全体の雰囲気については、後日、松井との対談で次「お客さんが緊張してたもんね。 (中略)ワーワー騒いでいるんだけど、時々ピタッと止まる(笑)」と述べている。 球場で観戦していた当時のは、「こんなすごい雰囲気で試合できるなんて、うらやましい。 一野球ファンとして、のめり込んで見ました」と述べた。 なおイチローは、地元・愛知県の球団である中日の応援のために巨人側とされる三塁側で観戦したが 、その存在に気付いた中日ファンから代打出場を迫られ 、記者席に「退避」した。 関係者の著書では、「異様」という言葉が、今中『悔いはあります。 』、桑田『桑田真澄という生き方』、川相『明日への送りバント』に用いられている。 関係者等のコメント [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 落合については、同年に中日から巨人に移籍したもので、毎日新聞が再三にわたり「真価が問われる」と述べていたことにもあらわれるような状況にあったため、「泣くまいと思っていたが、(自然に涙が出てしまった)」というコメントを出した。 なお、東京新聞(10月12日付東京新聞19面12版)は、「あの史上初の最終決戦。 彼の真骨頂を見た」と評した。 落合は、後年、自著『プロフェッショナル』 p. 268 で、自分の信念として、次のとおり述べている。 ペナントレースにしろタイトル争いにしろ、僅かでも数字が高い者を勝者とする場合は、リードしている方が絶対に有利である。 (中略)精神的な重圧は、明らかに追う者の方がきついと言える。 ならば、リードしている者は精神的に余裕を持って戦える(中略)はずだ。 原は、2007年刊行の『巨人軍5000勝の記憶』で、この時点の巨人監督としてのメッセージの中で、この試合について「正直、あの心境は二度と味わいたくないですね。 (中略)巨人軍5000勝という枠を超えた、最も印象に残る、しかし二度と経験したくはない1勝でした」と述べている p. 6 -。 大豊は中日のとして、「(巨人の四番打者であった)落合さんはホームランとタイムリーという試合の流れを決める働きをした。 自分は1回の併殺打で全てが終わり1本のヒットも打つことが出来なかった。 (中略)4番の差で負けた。 それだけではないと思いますが、4番打者の差が一つの大きな敗因だった」と振り返っている• 中日で8回から2イニングを投げたは、この登板を、プロ野球生活一番の思い出、と述べている。 球審を務めた小林は、のちに「球審は当時の審判部役員の推薦により決まり、すごくうれしかった。 あの日は球場入りすると異様な雰囲気。 も日本各地から集まった感じ。 しかし、試合が始まると思ったほど緊張しなかったし、試合終了後、セ・リーグ会長(当時)が審判員や員を食事に連れて行ってくれた」「大事な試合を無事にこなせたという充実感でいっぱいでした」と述べている。 一方で、「特別なゲームだからと言って、何かしないといけないというわけではない」「両チーム、ファンと同じ温度でいては、冷静な判定は決してできませんから」と、審判のあり方についても述べている。 先にの優勝・出場を決定し、この試合の勝者と日本一を争うこととなっていた監督(当時)の森祇晶は、「並大抵の相手じゃない」等の内容のコメントをし、それにかかる報道の中には、「(長嶋監督)その人を意識してもらした言葉のように感じられる」としたものもあった。 ちなみにこの試合、森祇晶本人は来ていなかったが、当時西武のヘッドコーチであったをはじめ、西武のチーム関係者も大挙してナゴヤ球場へ観戦に訪れていた。 両チームの監督 [ ] 対戦両チームの監督だった2人は、後年、次のとおり述べている。 (高木)屈辱の一戦だった。 ああいう試合は特別。 今まで通りやればいいと思ってしまった。 経験が足りなかった。 巨人は主力投手をすべて使った。 私は(山田、野中を使い)山本昌、郭も使い切れなかった。 悔いが残ります。 (長嶋)監督として一番印象に残る試合と言われれば、この10. 8以外にない。 1ゲームを勝った負けたで1年の優劣が決まる。 これほど過酷な試合はない。 敗者になれば地獄へ落とされる怖さがあった。 警備、市中関係の状況 [ ] のように球場内の警戒態勢は厳重で、試合終了直後は、外野フェンスに向けて平行して警備員が並ぶ光景が放映されたような状態で、当時の新聞記事の中には、試合終了後グラウンドになだれ込むファンがいなかったことを特筆しているものも複数ある。 球場側の警備担当者は、「無事終わってホッとしています。 試合前は胃がチクチクしていたんですよ。 (ファンの乱闘などの)トラブルもなくて良かったです」と述べた。 巨人側は、上記胴上げ等の後も無事に、宿舎に用意された会場に向かった。 前述のように球場周辺の繁華街では、の警官110人が夜通しで警戒にあたった が、特段の騒動は起こらなかった。 野球中継用のテレビ5台が設置された本店には試合終了時約2000人のファンが集まっており、同店は、用意した約2500本の缶ビールと樽酒を"涙酒"としてファンにふるまった。 なお、・の翌年開業により、廃止が決まっていた・は、この試合日が最終営業日であった。 試合中継 [ ] 試合は(フジテレビ系列の中日主管試合の担当局)との共同制作で日本全国の において18時30分(実際は18時から放送されていた前番組の土曜版 )よりテレビで生中継され、土曜日のナイターということもあり、関東地区での(調べ )はプロ野球中継史上最高の48. 前記の通り解説は達川光男と鈴木孝政。 実況は東海テレビアナウンサーの吉村功が務めた。 レポーターは1塁側が 東海テレビアナウンサー 、3塁側が フジテレビアナウンサー。 吉村は中止となった9月27日と29日の実況も担当する予定であったといい 、結果的にはスライドで担当することとなった。 当初、東海テレビは10月6日から9日まで同局主催で行われるトーナメントのの中継に人員を割くため、10月8日の試合は録画中継で対応する予定であったが、この試合に勝ったチームが優勝という状況となった10月6日の夕方に急遽生中継が決定。 吉村は東海クラシックでは10月8日の3日目と9日の最終日の実況を担当する予定であったが、3日目の実況を後輩のと交代して「10. 8決戦」の実況に臨んだ。 ただ、最終日の実況は当初の予定通り吉村が担当したため、吉村は野球とゴルフの両方の実況準備の為、生中継が決まった6日から2日間ほとんど睡眠がとれず、また8日の午前中も東海クラシックの会場である三好カントリー倶楽部で取材をした後で14時過ぎにナゴヤ球場に入ったという。 さらに吉村は「10. 8決戦」の実況を終えた後も名古屋市内のホテルで翌日の東海クラシックの実況の準備をしていたが、そのホテルが巨人の名古屋遠征時の定宿のホテルであったため、祝勝会の様子を見に降りていくとそこで落合と遭遇。 吉村の部屋の番号を聞いた落合は祝勝会終了後に吉村の部屋を訪れて30分ほど2人で飲んだといい、その去り際に「勝ってよかった。 もし、負けていたら俺は巨人を辞めるつもりだった。 勝って本当に良かった。 明日頑張って。 」と言い残したという。 この中継に対応するため、フジテレビでは、当初この時間に放送する予定だった『』 101を、『・北野先生も知らぬ(秘)奥の手下克上スペシャル!! 』をの放送とした。 は、による当時の実況(:)をで配信している。 試合直後 [ ] 中日側は、「ほとんどの選手が、試合の直後は一種の空白感に襲われ、3日くらいしてから、痛烈に悔しさがこみあげてきたという」ほどであった。 当時の報道 [ ] 下記の記事はすべて翌日、10月9日付の記事 日本経済新聞 社会面で「球場警備に総勢千人を繰り出す厳戒体制のなか(中略)最後の打者となった小森内野手が三振に倒れると、ナゴヤ球場は異様なムードに包まれた」「試合中は、三塁側にも中日ファンが詰め掛け(以下略)」と当日の警備体制、社会的な雰囲気を報じた。 毎日新聞 社会面で「興奮頂点『ナゴヤ』が揺れた」との見出しで、著名人(他)、一般のファンの声を幾つも紹介した。 また、「『常勝・巨人軍』がよみがえったのではないことを多くの人は知っている」と述べている。 朝日新聞 社会面で、他の一般紙に比べて小さい扱いながら「130試合目、敵地で歓喜」などと報じた。 また、スポーツ面では、イチローの観戦も報じたほかに(イチローの所属チーム()の10月9日の試合予定もある)、「レベルの低さが熱セ招く」「中日が逆転優勝すると思ったんだけどな」などと論じた。 地方紙 地方紙でも、山形新聞は社会面で、「苦しみぬいた末の優勝に涙の巨人ファン」等、巨人ファンの喜ぶ様子を中心に、松坂屋本店で用意されたも割られることなく、祝勝用の樽酒の一部を涙酒として振る舞われた様子も報じた。 スポーツ紙 スポーツ紙は、ニッカン、スポニチなど、試合経過・結果を詳細に報じたことはもとより、球場やそのまわりの状況についても報じた。 ニッカンは「厳戒ナゴヤにトラブルなし」という小見出しで無事に試合が終わったことを特筆した。 同率最終戦での最下位決定戦 [ ] の通り、10月4日の中日戦、6日の巨人戦に勝ったヤクルトは 8日の戦にも勝利し、と同率5位(同率最下位)となった。 これによりヤクルトと横浜が最下位を確定する最終直接対戦に臨んだ。 この試合は10. 8決戦と同様に、9月30日にセ・リーグから発表された「追加日程」に含まれていたもので、同年のリーグ公式戦最終試合でもあった。 に神宮球場で行われたヤクルト対横浜戦はヤクルトが2-1でサヨナラ勝ち。 これによりヤクルトは阪神と並んで同率4位となり、横浜の最下位が確定した。 なお、優勝した巨人と最下位横浜のゲーム差は9. 0であった。 「」を参照 高木監督留任決定 [ ] 監督の去就について、中日はのとおりの事情があったが、の1面に高木監督の続投決定が掲載され 、この試合終了までの時点までには、球団側は高木の慰留に努める旨表明していた。 ただ、一度は球団側が解任を通告した経緯もあり、辞意が固い旨報じられていた。 なお、巨人についても、試合結果を報じる10月9日付ニッカンが長嶋の留任が確定的となった旨を書くなど、試合直前の時点では流動的な要素があった。 高木は、上記ニッカン等でも報じられた予定のとおりに10月11日に球団側にシーズンの報告を行った際にオーナー(当時)のらからあらためて慰留を受け、13日に同オーナーとあらためて面会して留任が決まった。 高木は、その間に選手会長(当時)のに電話する等して選手側の気持ちも確認したという。 その後 [ ] ここでは、その後にあった、この試合に関連する事項について記す。 「10. 8決戦」という言葉 [ ] 「10. 8決戦」という言葉は、本項目で引用している10月8日 - 9日付の新聞にはほとんど見られない。 試合後しばらくして刊行された1994年11月14日号(小森哲也を顕著な形で取り上げた記事) に使用例が見られるが、定着したと言える状態になった時期は必ずしも明確ではない。 2004年に発行された『プロ野球70年史』「歴史編」p. 620以下でも「10. 8決戦」という言葉が複数回用いられている。 『中日ドラゴンズ70年史』では、「『10. 8』決戦」と表記され、ベースボールマガジン2009年3月号では「10. 8」とされている。 また『ありがとうナゴヤ球場』(中日新聞社、1996年)には「10. 8大決戦」と記している。 関係者の著書を見ると、「10. 8決戦」という言葉が、桑田『桑田真澄という生き方』(1995年)、落合『プロフェッショナル』(1999年)で使用されている。 一方、今中『悔いはあります。 』(2002年)は「"10. 8"」と表記している。 一方で、『巨人軍5000勝の記憶』、川相『明日への送りバント』では、特に名称をつけていない。 「10. 8決戦」と結びつけて報じられた試合 [ ] 2008年の「10. 8」 [ ] 「」および「」も参照 10月8日にで行われた巨人対阪神第24回戦は、両チームとも81勝56敗3分(残り3試合)で同率首位の状態での最終戦であり、勝った方にが点灯することになっていたことから、14年前の一戦にちなんで「10. 8決戦」と取り上げる報道が複数見られた。 1994年当時の関係者等の中で、この時点で巨人の打撃コーチであった村田真一は、「幸せなことだよ。 また、こうした優勝争いを体験できるっていうのは」と述べた。 この試合では、巨人が3 - 1で勝利し、マジック「2」が点灯。 10月10日に巨人がヤクルトに勝利、阪神が横浜に敗れたため巨人の優勝が決定した。 2008年10月9日付 は、上記2008年の試合について、「巨人にとって10月8日は(中略)記念日だ。 『10. 8』を選手として戦った原監督は、その日にマジックナンバー『2』を点灯させた」と報じた。 さらに、その記事をに関するコラムと隣り合わせにし、そこでは、「"前身"のの最終戦の話をしたい。 (中略)1988年の『10. 19の悲劇』」とし、と並ぶ記事配列とした。 2012年のクライマックスシリーズ [ ] 詳細は「」を参照 に行われた、 ファイナルステージ第6戦(東京ドーム)は、巨人と中日が最終戦で日本シリーズ出場を賭けて対戦したこと、10. 8決戦に選手として出場した原が監督を務める巨人と、10. 8決戦当時の監督で、2012年シーズンから再び指揮を執る高木が監督を務める中日の対決であったことなどの状況から、試合前・試合後のスポーツ紙や翌日の一般紙などで10. 8決戦を絡めた報道が複数見られた。 試合は、2回裏に3点先制した巨人が、5回無失点で抑えた先発投手からの中継ぎに、第4戦での先発以来中1日での登板となったを投入するという10. 8決戦での斎藤と共通点のある継投策を見せ 、4対2で巨人が勝利。 巨人が日本シリーズ進出を決め、高木はまたも決戦で「敗軍の将」となった。 「最高の試合」第1位 [ ] 、が12球団の選手・監督・コーチら計858人からプロ野球の歴史を彩った「最高の試合」と「名勝負・名場面」についてアンケートを募集したところ「最高の試合」部門で第1位に選ばれた。 脚注 [ ]• 当事者球団同士の最終戦での優勝決定戦ということでは、過去()に阪神と巨人との間で行われたことがあった(後述)が、10. 8決戦と比較すると状況は多少異なる。 関係者から見たこの試合の位置づけについて、川相は自著で「日本シリーズでの第7戦とはまた意味合いの違う(中略)。 ここで破れれば、129試合、なんのために気持ちを切らさずにがんばってきたのかわからなくなります」と述べている。 を参照。 なお、今中の同年の対巨人戦「もう1敗」は、に桑田真澄の適時打・2失点によるもので、今中は7回3失点で「攻略」とはとても言えない。 の中日戦でマジックナンバーが消滅。 の広島戦で再点灯したが、の横浜戦で再び消滅した。 9月28日の試合は行われて、中日が勝利した。 中日サイドは28日時点で台風の進路予想から「9月29日の試合は中止になる」と判断し、29日の試合の先発が濃厚とされていた今中を28日の試合にリリーフで起用した。 (吉村『アナウンサーは足で喋る』、P. 43)• これによって残り1ゲームで2ゲーム差となるため。 当時の登録名は本名の「 山本 昌広(やまもと まさひろ)」。 ここでの表記は「山本昌」で統一する。 敗戦投手は、この回に登板して槙原の前に塁上の2走者を残して降板したである。 この時点まで「巨人・中日の両チームがともに全試合を終了して同率で並ぶ」可能性があり、その場合は3試合制のプレーオフが行われるルールとなっていた(を参照)。 セ・リーグではに中日がシーズン最終戦に勝って優勝が決定したということがあるが、この最終戦の相手は優勝争いに関係ないであった(中日がこの最終戦に敗れていたら、先に公式戦全日程を終了していた巨人が同年の優勝となるところであった)。 なお、高木はこの当時も中日にコーチとして在籍していた(を参照)。 中日の優勝のうちこの年から見て"前回"()の際にフェンスを破ってファンがなだれ込み、けが人も出し、「手薄な」警備も問題となった なお、ここの出典にある1988年の日経によると、愛知県警機動隊約120人、球場側約260人の警備体制ということであった。 1973年の「最終決戦」で、暴徒化したにより、試合終了時のグラウンド()は胴上げ中止など大混乱となった。 上記10月8日付スポニチの紙上で、森祇晶は、試合終了時には逃げることで頭が一杯であった旨、述べている。 10月8日付ニッカンのトップ見出しは「長嶋 国民的行事!! 、阪神が2位巨人に0. 5ゲーム差で首位にいた状況で、両チームにとっての最終戦が優勝を決定する直接対決として行われた。 ただし、長嶋は当時コーチ兼任選手として巨人に在籍していたものの、別の試合で負傷のため試合会場に行かなかった。 なお、高木は、同年10月20日に阪神を破ってこの局面を「演出」した中日に選手として在籍していた(も参照)。 「二死」と思っていたため、打者が三振の際に攻守交替となるため帰塁を考える必要がないという前提で行動して、捕手村田からのによる 牽制死となったものである。 松井の(バント)は、このほかにはに2つあるのみであり、勝負全体の中でも特に勝ち越し点への「執念」を示すものの一つと位置付けられる。 落合は、この負傷が影響して後日のは第3戦にで出場したのみにとどまった。 は、後年、自著で、「自分の所に打球が飛んでくることが怖いと感じたほど緊張」し、試合中憶えていることは「初回に大豊の二塁ゴロを処理し損ねそうになった」ことと、「第1打席で安打を放ったこと」くらいで、他の選手に聞いた範囲でも、元木自身と同様「『あまり憶えていなかった』という選手が多かった」という趣旨のことを述べている。 のとおり、巨人も3失策し、うち1つは失点に結びつき、さらに落合の負傷退場の原因となったプレーもある。 立浪の左腕が一塁ベースにぶつかるように達している場面の写真は『中日ドラゴンズ70年史』p. 176にも取り上げられている。 なお、打者走者の一塁へのスライディングの意図と危険性等は 「」を参照• 立浪が負傷退場した時の球場内の雰囲気については「(立浪の一塁塁上での脱臼について)あの当たりだったら(中略)みんな同じことをしたと思うから怖かった」と述べている。 打球が本塁打ではないという判定を下した二塁塁審の福井は後年、だったことを認めた。 また福井は10. 8決戦当日朝に、セ・リーグ連盟より引退またはへの技術指導の選択を指示されたことを受け、翌年から台湾に渡っており、この試合が日本野球機構(セ・リーグ)でジャッジを行った最後の試合である。 によると、前述の通り、この試合が福井にとっては最後の試合であり、試合前には福井が長嶋監督のもとに挨拶に来ていた。 そういったことから、福井の気持ちを考え、その時点で3点リードしていたこともあり、判定に執拗に抗議することを避けた。 この試合が行われた当時、先発登板した投手は、次回登板まで4日以上あけることが一般的な状況であった。 例としては、では、第1戦の両チーム先発投手は5日後の第5戦に先発登板している。 川相も「あれは気分的に楽でした」と振り返っている。 ただし、川相は、こう述べた当時、落合監督の中日でコーチをしていた。 例えば、この当時の山形県は前年であるのにがフジテレビ系列のフルネット局からのフルネット局へのを行った影響で、フジテレビ系列のテレビ局が存在せず、多くの山形県民はこの試合をテレビ観戦できなかった。 東海テレビでは名古屋ローカルで、17時30分から中日ドラゴンズの応援番組の『』をナゴヤ球場のスタンドより中継放送し、試合開始前の球場内や野球中継を行う放送席の様子を伝えている。 『ベースボール・レコードブック 1995』は「(1994年のヤクルトは)4日に中日に勝ち、6日に巨人に勝ったことで史上初の130試合目同率決戦のお膳立てを整え…」と記述している p. 関連経緯 [ ] 1994年10月の、主に試合に関する事項を掲載する。 1日(土)、2日(日)• 巨人、中日とも連勝し、同率首位のまま。 1日は、巨人は槙原12勝目、中日は山本昌18勝目。 2日は、中日は9連勝、今中13勝目。 (2日に、パ・リーグで西武が優勝、日本シリーズ出場決定())• 4日(火)• 中日、ヤクルトに1 - 4で敗れ、試合のなかった巨人に0. 5ゲーム差の2位。 5日(水)• 巨人はヤクルトに6 - 0で勝利し、桑田14勝目。 試合のなかった中日とのゲーム差は1に。 6日に巨人が勝ち、中日が敗れれば巨人の優勝決定へと。 6日(木)• 中日は阪神に10 - 2で勝利し、山本昌19勝目。 巨人はヤクルトに2 - 6で敗れ、巨人と中日は再び同率首位に(斎藤、槙原登板 )。 「プレーオフ」の可能性も消滅。 8日(土)• 巨人が中日に6 - 3で勝利し、リーグ優勝決定。 この日、両チームと広島が公式戦全日程終了(阪神は先に公式戦全日程終了)。 (ヤクルトと横浜は同率5位 同率最下位 で並び、9日予定の両球団の最終戦が最下位決定戦となることが確定した)• 9日(日)• ヤクルトが横浜に2 - 1でサヨナラ勝利し、ヤクルトの同率4位、横浜の最下位が決定し、リーグ公式戦全日程終了()。 13日• 中日、高木監督の留任を発表()。 22日 - 29日• 日本シリーズ(詳細についてはを参照) 参考文献 [ ]• 『 1995』 ベースボールマガジン社 試合p. 145、巨人p. 10、中日p. 『』1995. 30号通算362号 雑誌コード26855-3. 30 p. 84 - 88• 桑田真澄『『試練が人を磨く- 桑田真澄という生き方』』、1995年5月。 落合博満『プロフェッショナル』ベースボール・マガジン社、1999年12月、p. 262 - 268。 今中慎二『悔いは、あります。 』、2002年、p. 126 - p. 149ほか。 同書は、この試合を扱った章の副題として「名古屋が涙に暮れた夜」としている。 『日本野球25人 私のベストゲーム』、2006年、長嶋茂雄:p8 - 17、松井秀喜:p. 144 - 153。 2007年7月29日付日本経済新聞『私の履歴書』(長嶋)40面 縮刷版2007年7月号 p. 1740• (単行本化)『野球は人生そのものだ』 p. 268 - 270• 『 歴史編』 p. 620 - 622、623、『プロ野球70年史 記録編』 同 p. 648、649 ベースボール・マガジン社 2004年12月• 川相昌弘『明日への送りバント』ロングセラーズ、2005年3月、p. 113 - 119ほか。 『中日ドラゴンズ70年史』、2006年2月、p. 176 - 177。 2009年3月号 雑誌コード07915-3 p. 72 - 75• ベースボールマガジン2009年5月号 雑誌コード07915-5 p. 72 - 73• 『Sports Graphic Number』2009. 30号通算733号 雑誌コード26855-7. 30 p. 元木大介『元木大介の1分で読めるプロ野球テッパン話88』、2009年、p. 157 - 158。 『10. 8巨人vs. 中日史上最高の決戦』、2013年。 別冊宝島2521『球史の証言者たち』、2016年12月。 『アナウンサーは足で喋る』桜山社、2017年5月。 出典 [ ] スポーツ新聞でない新聞については、特記ない限り、該当するの1994年10月号である(東京新聞は)。 スポーツ新聞については、基本的に原紙で確認している。 は、『』 [ ]の「世相・風俗 1994 」 アーカイブ において、「プロ野球を中心にスポーツ界に話題が集まる」として、イチローの210安打、巨人の「日本一」と並んでこの試合を取り上げている。 8月19日付日経33面縮刷版1994年8月号p. 825「25点灯 今中粉砕、松井2発」• 7月14日付朝日27面縮刷版同年7月号p. 633• 36 - 高木は「(8月に)会社から(解任を言われた)時点で『よし、このまま終わってたまるか』と」と述べている。 『ベースボール・レコードブック 1995』p. 12 - も参照。 10月1日付読売新聞18面 縮刷版p. 267、(参考)10月7日付日経35面縮刷版p. 359• 制定前のため、当時は必然的に出場権も含まれた。 『プロ野球70年史 記録編』p. 627ほか• 『Sponichi Annex』「動の長嶋茂雄、静の高木守道」• 読売10月7日付夕刊3面 縮刷版p. 349• 30 362号 p. 86 - 88• 『日本野球25人私のベストゲーム』• 『number』2009. 30 733号 p. 140• 72 - 73• 10月7日付毎日新聞夕刊3面縮刷版p. 349、1988年10月8日付日経 社会31面縮刷版同年10月号p. 401ほか• 発表は10月3日(10月4日付東京新聞19面12版)。 スポーツ35面 縮刷版p. 359• 1面、スポーツ36面 縮刷版p. 383、p. 418• 夕刊11面 縮刷版p. 433• 11面 縮刷版p. 331• 3面 縮刷版p. 347• 縮刷版p. 201• 『週刊ベースボール』1973年11月5日号 834号• 191 - 193• 1028(2007年5月28日時点の) 桑田同様に槙原、斎藤も試合前日長嶋に呼び出されたとする文献もあるが、斎藤は否定している。 60 - 61• 巨人軍5000勝の記憶. 6~7• 144• 113~118• 157~158• 週刊ベースボール1995年1月29日号 2094号• 267• 327• 10月7日付読売新聞 スポーツ23面 縮刷版p. 333、ベースボールマガジン2009年3月号、ほか• 『number』2009. 30 733号 p. 山際淳司 『風たちの伝説』 河出書房新社、1995年、65頁• 桑田『桑田真澄という生き方』• 『number』 1994. 24 353号 p. 週刊ベースボール1995年1月29日号 2094号• 418、419、427• 10月9日付東京新聞14面12版• 日経 スポーツ25面 縮刷版p. 459 ほか• 280-P. 281• 『ドラフト1位 九人の光と影』 2008年 p. 毎日新聞10月10日付 スポーツ20面 縮刷版p. 384• 『中日ドラゴンズ70年史』p. 34(OBによる座談会)• 日経2007年7月29日付40面『私の履歴書』縮刷版同年7月号p. 1740• 例 : 10月9日付毎日新聞 スポーツ18面 縮刷版p. 350「ファンはなだれ込まなかった。 それは首脳陣、選手への『称賛』の証明だった」• 10月8日付毎日新聞夕刊11面 縮刷版p. 331• 461• 10月9日付中日新聞p. 3によると、当日18時からのFNNスーパータイムは「野球以外のニュースは4分20秒しかお伝えできません」であったという。 10月11日付毎日新聞夕刊12面 縮刷版p. 404• 41、P. 43-P. 71-P. 23面 縮刷版p. 355• 19面 縮刷版p. 251• 10月10日付日経 スポーツ24面縮刷版p. 486「勝者が4位タイ、敗者が最下位となる"大一番"」• 文藝春秋社『10. 8巨人VS中日史上最高の決戦』P. 145• 10月13日付東京新聞夕刊3面E版、日経等の新聞縮刷版(13日付夕刊)でも確認可能• 2086号 p. 2008年10月8日付のスポニチ 5面 (東京都で発行11版)「"14年前の再現"宣言」、ニッカン2面(東京都で発行7版)「10. 8原記念日」(原は10月8日の現役選手最後の出場試合で本塁打を打った)、10月9日付のスポニチ 3面「やっぱり10. 8巨人の日!! 」、報知新聞 2面(東京都で発行10版)、ほか• 2008年10月9日付報知1面(東京都で発行 10版)• 16面 原紙(で発行15版)で確認• サンケイスポーツ『(2012年10月23日時点の)』2012年10月22日 紙面から、同年10月26日閲覧、中日スポーツ『(2012年10月25日時点の)』2012年10月22日 紙面から、同年10月26日閲覧、毎日新聞同年10月23日23頁(同新聞サイト『』 同年10月26日閲覧)• - 日刊スポーツ2012年10月23日• (2012年10月23日時点の) - スポーツ報知2012年10月23日•

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1968年の阪神タイガース

巨人 対 阪神

巨人が快勝し通算成績を2勝0敗とした。 1回2死から丸と岡本の連続ソロで2点を先制。 2回に亀井の適時二塁打などで3点を加えた。 山口は8回途中まで1失点と力投。 阪神は先発した望月が制球難で2回5失点。 救援陣は踏ん張ったが、打線が暴投と押し出し四球による2点に終わった。 1死から連打で一、二塁。 その後、制球を乱し2死満塁。 北條は四球を選び押し出し。 ここで田口に交代。 木浪は三ゴロで試合終了 巨人対阪神 9回表阪神1死一塁、高山は中前打を放つ(撮影・加藤哉) 巨人対阪神 9回表阪神2死満塁、北條は四球を選んで押し出しとなる、左は三走糸原(撮影・加藤哉) 巨人対阪神 9回表阪神2死満塁、木浪を三ゴロに仕留め雄たけびを上げる田口(撮影・垰建太) <8回> 阪神 途中出場の北條が左安打。 木浪を二ゴロに仕留めたところで中川に交代。 後続が倒れ無得点 巨人 丸は四球も後続が倒れ無得点 巨人対阪神 8回表阪神1死一塁、降板となり宮本コーチ(中央)からねぎらいを受ける山口(左)(撮影・清水貴仁) 巨人対阪神 8回表阪神1死一塁、降板となった山口(手前)を拍手で迎える阿部(撮影・浅見桂子) <7回> 阪神 1死から高山が右安打。 2死後、梅野は一ゴロ 巨人 4番手は守屋。 3者凡退。 近本が好捕するなど、阪神強みの救援陣の前に得点を奪えず 巨人対阪神 7回表阪神1死、右前打を放つ高山俊(撮影・清水貴仁)=2019年10月9日、東京ドーム 巨人対阪神 7回裏巨人、ベンチで指示を出す原監督(撮影・垰建太) 巨人対阪神 7回裏巨人1死、近本は亀井の飛球を好捕する(撮影・加藤哉) 巨人対阪神 7回裏巨人1死、近本は亀井の飛球を好捕する(撮影・加藤哉) <6回> 阪神 3者凡退 巨人 3者凡退 <5回> 阪神 梅野が四球。 「ここで」代打鳥谷も二併。 木浪は右飛 巨人 3番手は能見。 2死から岡本が三遊間を破る。 阿部は中飛で追加点ならず。 丸の打球を追った大山がカメラマンに席に飛び込むガッツを見せる 巨人対阪神 5回表阪神無死一塁、代打鳥谷は二ゴロを放つ、左は阿部(撮影・加藤哉) 巨人対阪神 5回裏巨人2死、丸のファウルを追う大山はカメラ席に飛び込む(撮影・奥田泰也) <4回> 阪神 2死から福留、マルテの連打と四球で満塁。 高山の打席で 山口が暴投で1点を返す。 再度満塁も、CS不調で8日に休日返上練習を行った大山が初球を打ち上げ中飛 巨人 3者凡退 巨人対阪神 4回表阪神2死満塁、大山は中飛を打ち上げる。 投手山口(撮影・山崎安昭) 巨人対阪神 4回表巨人2死満塁、山口の暴投で失点する、捕手は小林(撮影・奥田泰也) <3回> 阪神 3者凡退。 望月の代打陽川は遊ゴロ 巨人 2番手は岩貞。 3者凡退 巨人対阪神 3回裏、阪神2番手で登板する岩貞(撮影・加藤哉) <2回> 阪神 3者凡退 巨人 1死から田中俊が中安打。 バッテリーエラーで二進。 小林は四球で一、二塁。 2死後、 亀井が左翼線二塁打で追加点。 坂本勇の2点中前適時打で5-0とした 巨人対阪神 2回裏巨人2死一、二塁、亀井は左線適時二塁打を放つ(撮影・加藤哉) 巨人対阪神 2回裏巨人2死二、三塁、中前へ2点適時打を放つ坂本勇(撮影・清水貴仁) <1回> 阪神 3者凡退 巨人 2死から 丸が中越え本塁打で先制。 続く 岡本も左翼席へ運び2者連続本塁打。 甘く入ったフォークをとらえた。 阿部は見三振 巨人対阪神 1回裏巨人2死、先制の中越えソロ本塁打を放ちベンチに向かってガッツポーズする丸(撮影・垰建太) 巨人対阪神 1回裏巨人2死、中越えの先制本塁打を放つ丸佳浩(撮影・清水貴仁) 巨人対阪神 1回裏巨人2死、岡本は左越え本塁打を放つ(撮影・加藤哉) 巨人対阪神 阪神戦に先発する山口(撮影・加藤哉) 巨人対阪神 巨人戦に先発する望月(撮影・加藤哉) スタメン.

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小林繁

巨人 対 阪神

概要 [ ] に前監督の指揮権返上を受けて監督代行のまま指揮を執った金田正泰がこの年から再び監督に就任。 金田新監督のもと、前年2位躍進の原動力となったやをはじめ・などがローテーションを守るなど投手陣は盤石で、チームは開幕から前年8連覇のが苦戦したこともありまずまずのスタートを切ると、7月まではと首位を争った。 8月30日の中日戦では無安打合戦の末、江夏がサヨナラ本塁打を放ってチームは首位を固めるかに見えたが前半戦不振の巨人が追い上げて10月10日からの直接対決を迎える。 第1戦は4番で正捕手のが逆転満塁本塁打を放ち、最後は江夏が締めて第1戦を逆転勝利。 11日の試合、前日の逆転勝ちの余韻が残るチームは3回まで7対0とリードするが、そこから巨人打線が反撃すると江夏が打ちこまれ後を受けたリリーフも失点し、勝てる試合を10対10で引き分け。 その後両チーム一進一退の試合が続き、20日の対中日戦に勝てば優勝が近づいたが、中日のエースの前に打線が沈黙。 2日後の最終戦に勝てば優勝だったが、投手陣が巨人打線に打ちこまれて0対9で敗戦。 9年ぶりのリーグ優勝はならなかった。 8月5日の巨人戦でが芝生に足をとられの打球を後逸してチームも敗戦し(試合後金田監督は「池田は悪くないけど、芝生が悪かった」と池田をかばった)、11月23日の阪神ファン感謝デー終了後にこの年引退のが金田監督を殴打するなどハプニングが続出した。 チーム成績 [ ] レギュラーシーズン [ ] 開幕オーダー 1 遊 2 二 3 左 4 捕 5 一 6 右 7 三 8 中 9 投 1973年セントラル・リーグ順位変動 順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績 1位 中日 -- 大洋 -- 広島 -- 中日 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 2位 大洋 0. 5 広島 0. 0 中日 阪神 3. 0 阪神 0. 5 阪神 2. 5 阪神 0. 5 3位 阪神 1. 5 中日 1. 0 阪神 1. 0 広島 4. 0 中日 1. 0 中日 3. 0 中日 1. 5 4位 巨人 2. 5 阪神 2. 5 巨人 3. 5 巨人 4. 5 広島 2. 0 ヤクルト 6. 0 ヤクルト 4. 5 5位 広島 3. 5 巨人 4. 0 大洋 4. 0 ヤクルト 6. 5 大洋 2. 5 大洋 6. 0 大洋 5. 0 6位 ヤクルト 4. 0 ヤクルト 7. 5 ヤクルト 6. 5 大洋 9. 0 ヤクルト 3. 0 広島 6. 5 広島 6. 5 順位 優勝 66 60 4. 524 - 2位 64 59 7. 520 0. 5 3位 64 61 5. 512 1. 5 4位 62 65 3. 488 4. 5 5位 60 64 6. 484 5. 0 6位 60 67 3. 472 6. 5 オールスターゲーム1973 [ ] 詳細は「」を参照 ファン投票 監督推薦 できごと [ ]• - が巨人戦で9回2死までを続けていたが、に打たれてノーヒットを阻まれる。 阪神の「あと1人で費えたノーヒットノーラン」は、の(当時投手。 を阻まれる)、のに次いで3人目。 - がでの対中日20回戦で中日打線を延長11回ノーヒットノーランに抑え、11回裏に自ら2号サヨナラ決勝本塁打を打つ。 - 対中日26回戦()に敗れ、対巨人26回戦は、勝ったチームがリーグ優勝という決戦となる。 - 甲子園で対巨人26回戦が行われ、0対9で大敗。 試合後、怒ったファンがグラウンドに乱入、巨人ベンチを襲撃するなど暴動を起こす(スコアは参照)。 選手・スタッフ [ ]• 2017年4月25日閲覧。 朝日新聞1973年8月31日「江夏、ノーヒットノーラン 自らサヨナラ2号」朝日新聞縮刷版1973年8月p1071• 毎日新聞1973年10月21日17面「神・巨 きょう決戦 阪神、中日に飲まれる」毎日新聞縮刷版1973年10月p699• 読売新聞1973年10月23日1面「巨人が九連覇 セ・リーグ」読売新聞縮刷版1973年10月p819• 毎日新聞1973年10月23日17面「巨人、猛打の逆転V9 阪神6投手を粉砕 高橋一二塁を踏ませず」毎日新聞縮刷版1973年10月p759• 毎日新聞大阪本社 1973年10月23日朝刊• 読売新聞1973年10月23日23頁.

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