二 二 六 事件 成功 し てい たら。 二・二六事件とは (ニーニーロクジケンとは) [単語記事]

三島由紀夫と磯部浅一

二 二 六 事件 成功 し てい たら

概要 [ ] 陸軍内のの一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(、からに進み任官した、20歳代の隊附の、、達)は、かねてから「、尊皇斬奸」をに、武力を以てを殺害すれば、が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が終息すると考えていた。 彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。 決起将校らは、、、等の部隊中の一部を指揮して、 、 、 、 、 、 前・内大臣を襲撃、、、内務大臣官邸、、、陸軍大臣官邸、を占拠した。 そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由してに昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。 天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。 叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部はしたが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。 しかし、事件の首謀者達はに処された。 事件後しばらくは「 不祥事件(ふしょうじけん)」「 帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」 とも呼ばれていた。 で 226事件、 2・26事件 とも書かれる。 主な関係者 [ ] 叛乱軍 [ ] 首謀者(首魁) [ ]• 高橋太郎陸軍歩兵少尉• (陸軍歩兵中尉・附)• (陸軍歩兵中尉・豊橋陸軍教導学校附)• (陸軍歩兵中尉・近衛歩兵第3連隊附)• (陸軍歩兵中尉・歩兵第1連隊附)• (陸軍歩兵中尉・歩兵第3連隊附)• (陸軍中尉・野戦重砲兵第7連隊附)• (陸軍砲兵少尉・学生(野砲兵第7連隊附))• (陸軍少尉・附)• (陸軍歩兵少尉・歩兵第3連隊)• (陸軍歩兵少尉・歩兵第1連隊)• (思想家、元) 他 被害者 [ ] 死亡 [ ]• (内閣嘱託、事務取扱 ・陸軍歩兵)• (大蔵大臣)• (内大臣)• (教育総監・)• 警察官5名 重傷 [ ]• (侍従長・)• 他警察官など負傷者数名 他 [ ]• (・海軍大将) - 殺害対象であり首相官邸を襲撃されるが、襲撃グループがを岡田と誤認・殺害したことで難を逃れた。 背景 [ ] 陸軍高級幹部の派閥争い:皇道派と統制派 [ ] のリーダー 大日本帝国陸軍の高級将校の間では、の争いを源流とする、派閥争いの歴史があった。 1930年代初期までに、陸軍の高級幹部たちは主に2つの非公式なグループに分かれていた。 1つは大将とその盟友大将を中心とする、もう1つは、少将を中心とするであった。 皇道派は日本文化を重んじ、物質より精神を重視し、ソビエト連邦を攻撃する必要性を主張した。 統制派は、当時のドイツ参謀本部からの思想的影響が濃く、中央集権化した経済・軍事計画 総力戦理論 、技術の近代化・機械化、中国への拡大を支持していた。 荒木大将の陸軍大臣在任中は、皇道派が陸軍の主流派となり、多くの重要な参謀ポストを占めたが、彼らは荒木の辞任後に統制派の将校たちに交替された。 青年将校の政治化 [ ] 陸軍将校は、教育歴が 陸士 止まりの者と、 陸大 へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていた。 陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務する。 一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。 エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、高度に政治化された若手グループ(しばしば「青年将校」と呼ばれる)を作るようになっていった。 隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村漁村の窮状がある。 隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちとじかに接する立場であるがゆえに、兵たちの実家の農村漁村の窮状を知り憂国の念を抱いた。 たとえば、2. 26事件に参加した 事件当時少尉 の事件後の獄中手記に、高橋がで第一中隊の初年兵教育係であったときを回想するくだりがある。 高橋が初年兵身上調査の面談で家庭事情を聞くと、兵が「姉は…」といって口をつぐみ、下を向いて涙を浮かべる。 高橋は、兵の姉が身売りされたことを察して、それ以上は聞かず、初年兵調査でこのような情景が繰り返されることに暗然として嘆息する。 高橋は「食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、その心中は如何ばかりか。 この心情に泣く人幾人かある。 この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにはして置けない筈だ。 殊に為政の重職に立つ人は」と書き残している。 また、昭和8年11月に偕行社 陸軍の将校クラブ で皇道派・統制派の両派の中心人物が集まって会談した際、統制派のらが「青年将校は勝手に政治運動をするな。 お前らの考えている国家の改造や革新は、自分たちが省部 の中心になってやっていくからやめろ」と主張した際、青年将校たちはこう反駁した。 「あなた方陸大出身のエリートには農山村漁村の本当の苦しみは判らない。 それは自分たち、兵隊と日夜訓練している者だけに判るのだ」。 こうした農村漁村の窮状に対する憂国の念が、革命的な者の「君側の奸」思想の影響を受けていった。 北一輝が著した『』は「君側の奸」の思想の下、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造案を示したものだが、この本は昭和維新を夢見る青年将校たちの聖典だった。 『日本改造法案大綱』の「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた、、、、、、、らを中心とするクラスの青年将校は、上下一貫・左右一体を合言葉に、政治家と系大企業との癒着をはじめとする政治腐敗や、から続く深刻な等の現状を打破して、特権階級を排除した天皇政治の実現を図る必要性を声高に叫んでいた。 青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべきから外れた結果だと考えた(「国体」とは、おおよそ天皇と国家の関係のあり方を意味する)。 農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は、「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。 彼らの考えでは、その解決策は70年前のをモデルにした「昭和維新」を行う事であった。 すなわち青年将校たちが決起して「君側の奸」を倒すことで、再び天皇を中心とする政治に立ち返らせる。 その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階層を一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうという考え方である。 これらの信念は当時の国粋主義者たち、特に元社会主義者のの政治思想の影響を強く受けていた。 緩やかにつながった青年将校グループは大小さまざまであったが、東京圏の将校たちを中心に正式な会員が約100名ほどいたと推定されている。 その非公式のリーダーはであった。 元陸軍少尉で北一輝の門弟であった西田は、1920年代後半から急増した民間の国粋主義的な団体の著名なメンバーとなっていった。 彼は軍内の派閥を「国体原理派」と呼んだ。 1931年のとに続いて、当時の政治的テロの大部分に少なくともある程度は関与したが、陸軍と海軍のメンバーは分裂し、民間の国粋主義者たちとの関係を清算した。 皇道派と国体原理派の関係の正確な性質は複雑である。 この二派は同じグループとされたり、より大きなグループを構成する2つのグループとして扱われることも多い。 しかし、当時のメンバーたちの証言や書き残されたものによると、この二派は現実に別個のグループであって、それらが互恵的な同盟関係にあったことがわかる。 皇道派は国体原理派を隠蔽しつつ、彼らにアクセスを提供する見返りとして、急進的な将校たちを抑えるための手段として国体原理派を利用していた。 資金源 [ ] 国体原理派に属する人数は比較的少数ではあったが、同派がもたらした政治的テロの威力は大きかった。 参謀たちや皇族の中にも理解者がおり、中でも特筆すべきは、天皇の弟(1933年までは皇位継承者)で、西田や他の国体原理派リーダーたちの友人であったであった。 また、国体原理派はかなり反資本主義的であったにもかかわらず、我が身を守りたい財閥から資金を調達することに成功した。 は(1932年2月-3月)でが暗殺されたのち、青年将校らの動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(の戦前基準国内企業で、平成25年の価値にして7000万円ほど )をに贈与していた。 三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、(北の弟子で思想家)にもその一部が渡っていた。 2月22日の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという。 2月23日、栗原中尉はから蹶起資金として3000円受領した。 2月25日夕方、は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した。 政治的テロ [ ] 二・二六事件に至るまでの数年は、軍による一連のテロ行為やクーデター未遂が頻発した時期であった。 最も顕著なものは1932年ので、この事件では若い海軍士官が首相を暗殺した上に、各地を襲撃した。 この事件は、将来クーデターを試みる際には、兵力を利用する必要があることを陸軍の青年士官たち(五・一五事件を知ってはいたが関与しなかった)に認識させた点で重要である。 また、その前にあった三月事件や十月事件と同様、事件の加担者たちは比較的軽い15年以下の刑を受けただけであった。 この事も、二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。 ただし五・一五事件は海軍中尉らの独断によるであり、将校としての地位を利用したクーデターではない。 統制派による青年将校への抑圧 [ ] 統制派のエリート幕僚たちは、欧州ののの教訓から、今後の戦争は、単に軍隊だけが行うものではなく国家の総力を傾注せねば勝てず、そのためには国家の全力を戦争に総動員する体制()が必要と考えた。 したがって統制派の志向する国家改造とは、総力戦を可能にするために、軍部が国家の全般を指導できるようにするための国家体制の改造である。 この統制派の将校グループとしては、大正7年 1918年 頃から、、、によるがあり、昭和元年 1926年 ごろからは陸軍のを打倒して、総力戦への体制を整えることの2点を大きな目標とした。 また、昭和2年 1927年 頃から、を中心とするも形成され、の解決について議論していた。 二葉会と木曜会は、昭和4 1929 年に統合され、と改称した。 具体的にはを追放し、一夕会メンバーを主要ポストに就かせること。 具体的には機を見て武力で占領すること、などであった。 また、これとは別に1930年(昭和5年)には、を中心とする陸大卒エリートが日本の軍事国家化と翼賛議会体制への国家改造を目指してを結成した。 桜会は、1931年(昭和6年)3月の、同年10月のと二度にわたってクーデター計画を立てたが、いずれも未遂に終わった。 計画の段階では青年将校たちにも参加するよう誘っていたが、青年将校たちには橋本自身の権勢欲のためと映ったため、青年将校たちは反発を感じて参加しなかった。 青年将校たち自身もクーデターを含む構想を持っていながら、別のクーデター計画を立てた橋本一派を嫌悪する点は一見理解しづらいが、青年将校たちは自分たちが政権を担うつもりはなく、蹶起後の政権作りは民主的選挙に任せ、自分たちはクーデターが成功しても、腹を切って陛下の股肱を斬ったことを詫びるつもりであった。 「失敗はもとより死、成功もまた死」という「純粋な動機」からなすべき維新であると考えていた。 それに比べて橋本らの行動は単なる欧米風の政権奪取にすぎないと考えたのである。 、事件後、同年12月には陸相に代わり、事件首謀者の橋本らは左遷された。 青年将校らは橋本の計画に反対していたため、この処断を行った荒木陸相 皇道派 を支持した。 一方、統制派はこの荒木陸相人事で重用されなかったため、一夕会 統制派 は1934年 昭和9年 になると荒木陸相に見切りをつけ、荒木陸相排除に動いて、が陸相に就任した。 林陸相の下で、が軍務局長に迎えられ、陸軍省新聞班の名で「」(いわゆる「陸軍パンフレット」)が発表された。 ここで示された統制派の目指す国家改造は軍部主導の総動員国家、統制国家を樹立する方向性であったが、国防のためにも国民全体の生活基盤の安定が必要との観点から、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」 と論じ、「窮迫せる農村を救済せんが為めには、社会政策的対策は固より緊要であるが、 中略 経済機構の改善、人口問題の解決等根本的の対策を講ずることが必要」とした。 これはまた「国家改造は陸軍省、参謀本部がやるから青年将校はおとなしくしておれ」というメッセージでもあった。 しかしながら、青年将校の考える国家改造とは、「君側の奸を倒して天皇中心の国家とする」ということであり、軍部中心の国家とすることを求めるものではなかった。 統制派も青年将校も国家改造を求めてはいたが、両者は国家改造の方向性が異なるのである。 このため、陸軍の中央幕僚(統制派)は、青年将校たちの動きを危険思想と判断し、長期に渡りに青年将校の動向を監視させていた。 また、永田鉄山は皇道派の追放とあわせて、先に、の件で左遷されたやら清軍派(旧) メンバーの復活を図った。 青年将校たちは統制派に対する不信感を更に強めた。 クーデターを計画した橋本らを処断しないことは、軍紀を乱すばかりでなく、天皇に対する欺瞞であり不忠であり、その意味では統制派も「君側の奸」の一種と映ったからである(青年将校らは自らのクーデターで自らが処断されることは覚悟していた)。 中央幕僚らは目障りになってきた隊付青年将校に圧迫を加えるようになった。 陸軍士官学校事件 [ ] (昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で 十一月事件 において、国体原理派の主要メンバーである大尉と一等主計が、士官学校生徒らとともにクーデターを計画したとして逮捕された。 村中と磯部は、そのようなクーデターについて議論したことは認めたが、それを実行するための具体的な計画をしたことについては否定した。 (昭和10年)、村中はとをで告訴したが、軍当局は黙殺した。 事件を調査した軍法会議は、、証拠不十分で不起訴としたが、、村中と磯部は停職となった。 、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。 、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。 、村中は陸軍大臣と第一師団あてに、上申書を提出し、磯部はと13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。。 二人は、事件は統制派による青年将校への攻撃であると確信し、、「 」を陸軍のと全員に郵送した。 しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。 この中で、先のやに中央の幕僚たちが関与した事情を暴露した上で、これらの逆臣行動を隠蔽し、これに関与した中央幕僚らを処断しないことこそ、大元帥たる天皇陛下を欺瞞し奉る大不忠であると批判した。 中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。 、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった。 これらのことによって青年将校の間で逆に陸軍上層部に対する不信感が生まれることになった。 真崎教育総監罷免 [ ] 陸軍士官学校事件のあと、(昭和10年)7月、皇道派将校として唯一、高官()の地位に残っていた大将が罷免された。 このことでととの反目は度を深めた。 青年将校たちはこの罷免に憤慨した。 荒木大将が陸軍大臣であった頃でも、内閣の抵抗を克服できなかった荒木大将に対して幻滅していた経緯から、真崎大将が青年将校たちの唯一の希望となっていたからである。 また、真崎教育総監の罷免は統帥権干犯であるという批判もなされた。 陸軍教育総監はの一つに数えられ、これらの最高ポストの人事は陸軍三長官の合意により決められることになっていた。 三長官会議で示された真崎の罷免案は、統制派による皇道派高官の一掃人事の一環であり、真崎はこの人事に承服しなかった。 林陸軍大臣は真崎教育総監の承服を得ぬまま、天皇に上奏して許しを得た。 こうした経緯で統制派は皇道派の真崎を教育総監の地位から追放した。 このことが、教育総監は天皇が直接任命するポストであるのに、陸軍省の統制派が勝手に上奏して罷免するよう仕向けたのは、天皇の大権を犯す統帥権干犯であるとして批判された。 村中と磯部は、罷免に関して永田を攻撃する新しい文書を発表し、西田も文書を発表した。 相沢事件 [ ] 1935年白昼に、国体原理派の一員であり、真崎大将の友人であった相沢三郎中佐が、報復として統制派の中心人物、長を殺害する事件を起こした。 1936年1月下旬に始まった相沢の公判では、相沢と国体原理派の指導者たちが裁判官とも共謀して、彼らの主張を放送するための講演会のようにしてしまったため、報道は過熱した。 マスコミにおける相沢の支持者たちは、相沢の「道徳と愛国心」を称賛し、相沢自身は「真の国体原理に基づいて軍と国家を改革しようとした純粋な武士」と見なされるようになっていった。 磯部と陸軍幹部の接触 [ ] 二・二六事件の蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。 「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後の尋問に答えている。 1935年(昭和10年)9月、磯部がを訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。 改造には細部の案など初めは不必要だ。 三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、はその最も重要なる一つだ」と語った。 1935年12月14日、磯部は大尉を連れて、、、を訪問した。 山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。 しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。 1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。 「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。 「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。 1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。 川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。 『雄叫(おたけび)』というのだ。 一本あげよう。 自重してやりたまえ。 」と告げた。 1936年1月28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。 相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。 ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人を通じての500円の提供を約束した。 磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。 1936年2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、、などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、に関しては「は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。 決起のきっかけ [ ] 青年将校らは主に東京の、およびに属していたが、第1師団のへの派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。 まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。 なお慎重論もあり、大尉 や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。 大尉は第1師団の満洲行きが決まると、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ、また1935年1月の中隊長への昇進の前には、当時の連隊長大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し、蹶起に極めて消極的であった。 栗原、磯部から参加要請され、野中から叱責をうけ、さらに野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却ってがわれわれに降るだろう。 自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と言われ、ようやくになって決断した。 北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。 2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。 また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響をうけた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている。 磯部は獄中手記で「……以来、干犯されること二度に及び、を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。 ……の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。 維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。 維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。 統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。 ……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。 ……」と述べている。 村中の憲兵調書には「統帥権干犯 ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上がとが悪いと仰せられたということを聞きました。 ……閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。 また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、が悪い』と本庄長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。 右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。 『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。 「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。 これは当然戦争になる。 もとより生還は期し難い。 とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。 大部分は戦死してしまうだろう。 だから満洲移駐の前に元凶を斃す。 そして北支那へは絶対手をつけさせない。 今は外国と事を構える時期ではない。 国政を改革し、国民生活の安定を図る。 これが彼らの蹶起の動機であった」とは断定している。 東京憲兵隊の特高課長少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。 蹶起の計画 [ ] 蹶起趣意書 [ ] 反乱部隊は蹶起した理由を「(けっきしゅいしょ)」にまとめ、に伝達しようとした。 蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。 1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。 また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では大将、大将、中将、中将の逮捕・拘束、大将、長の罷免を要求している。 蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正しの擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。 襲撃目標 [ ] 2月21日、磯部と村中は大尉に襲撃目標リストを見せた。 襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。 磯部浅一は元老の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した(後述)。 また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。 また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎教育総監が目標に加えられた。 第一次目標 [ ]• (前・内大臣)• () 組閣のために対象から外される 第二次目標 [ ]• (、元)• (当主)• (筆頭常務理事)• (当主) 西園寺公望襲撃の計画と取りやめ [ ] 西園寺襲撃は18日夜の栗原安秀中尉宅での会合で決まり、翌19日、磯部がへ行き、の中尉に依頼し、同意を得る。 対馬は同じ教導学校の中尉、中尉、中尉、の一等主計、の中尉の5名に根回しした。 21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。 23日には栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。 24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。 そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。 西園寺がなぜか事前に事件の起こることを知って、長官舎に避難していたという説があるが、それは全くのデマである。 事件発生後、午前6時40分頃、がにある西園寺邸に電話をかけた際、「一堂未だお休み中」とが返事をしているし、また、官舎に避難したのは、午前7時30分頃であったと、当時の静岡県警察部長であったが手記にそのときの詳細を書いている。 事件経過 [ ] 襲撃又は占拠等の状況 [ ] 目標 時刻 指揮者 兵員 被害 午前5時10分頃• 中尉・歩一• 対馬中尉• 竹島中尉• 少尉・歩一• 少尉・歩一 約300• 秘書官 ・陸軍歩兵大佐(即死)• 警察官4名(即死) 高橋大蔵大臣私邸 午前5時5分• 中尉・近歩三• 中島中尉 約100• 大蔵大臣(即死)• 警察官1名(負傷) 東京 午前8時55分頃• 中尉・歩一• 中尉・野重七• 中橋中尉・近歩三• 池田少尉・歩一• 軍用トラック3台• 機関銃2基• 兵60 約3万円の損害 同上 同上 同上 無 午前9時30分 同上 同上 無 午前9時35分頃 同上 同上 無 午前9時40分 同上 同上 無 午前9時50分 同上 同上 無 斎藤内大臣私邸 午前5時5分頃• 中尉・歩三• 高橋少尉・歩三• 少尉 150• 内大臣(即死)• 民間人1名(重傷) 渡部教育総監私邸 午前6時頃• 安田少尉• 高橋少尉・歩三 約30• 教育総監・陸軍大将(即死) 鈴木侍従長官邸 午前5時10分頃• 安藤大尉・歩三 150• 侍従長・海軍大将(負傷)• 警察官2名(負傷) 陸軍大臣官邸 午前5時頃• 丹生中尉・歩一• 香田大尉・歩一旅• 山本又• 150 無 陸軍省並参謀本部 午前9時30分 同上 同上 歩兵少佐(負傷) 午前5時頃• 大尉・歩三• 常盤少尉・歩三• 鈴木少尉・歩三• 少尉・歩三 約400 無 後藤内務大臣官邸 午前6時35分頃• 鈴木少尉・歩三 約60 無 牧野 元・ 自午前5時40分頃 至同6時20分頃 大尉 指揮者共6 8 名• 巡査1名(即死)• 1名・旅館業1名(銃槍)• 旅館業1名(瓦にて負傷)• 別荘1棟焼失損害約6千円• 応戦により河野寿大尉及び予備陸軍歩兵が負傷 陸軍将校の指揮による出動 [ ] 反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。 歩兵第1連隊の司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。 事件当日は雪であった。 反乱軍はなど圧倒的な兵力を有しており、警備のらの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。 政府首脳・重臣への襲撃 [ ] 岡田啓介首相 [ ] 岡田首相 (左) と松尾大佐 ・海軍大将の岡田啓介は天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となる。 全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を少尉が、機関銃小隊を尾島健次郎曹長が率いた。 まず正門の立哨警戒の巡査が武装解除され、異変を察知して飛び出した外周警備の巡査6名も続いて拘束された。 しかしこの間に、邸内警備の土井清松は、総理秘書官 兼身辺警護役の・退役陸軍歩兵大佐とともに、岡田総理を寝室から避難させ、村上嘉茂衛門が廊下で警戒に当たった。 また裏門の詰め所では、小館喜代松巡査がに事態を急報する非常ベルを押す一方、清水与四郎巡査は邸内に入って裏庭側の警備に当たった。 非常ベルの音を聞いて襲撃部隊が殺到するのに対し、小館巡査は拳銃で応戦したものの、全身に被弾して昏倒した(後に警察病院に収容されたものの、午前7時30分、「天皇陛下万歳」の叫びを最後に殉職)。 また清水巡査は、裏庭側からの避難を試みた岡田総理一行を押しとどめたのち、非常避難口を守ってやはり殉職した。 廊下を守る村上巡査部長は数分に渡って襲撃部隊と銃撃戦を演じたものの、全身に被弾しつつ一歩一歩追い詰められ、ついに中庭に追い落とされて殉職した。 この間に邸内に引き返した岡田総理は女中部屋の押入れに隠され、松尾大佐と土井巡査はあえてそこから離れて中庭に出たところを襲撃部隊と遭遇、松尾大佐は射殺され、土井巡査も拳銃弾が尽き、林八郎少尉に組み付いたところを左右から銃剣で刺突され、殉職した。 しかしこれらの警察官の抵抗の間に岡田総理は隠れることができ、また、襲撃部隊は松尾大佐の遺体を見て岡田総理と誤認、目的を果たしたと思いこんだ。 高橋蔵相(元首相/左) と斎藤内大臣 (右) 元総理の高橋是清大蔵大臣は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。 積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果の兆候が出始め、緊縮政策に取りかかった。 高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から陸軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。 叛乱当日は中橋基明中尉及び少尉が襲撃部隊を指揮し、3丁目の高橋私邸を襲撃した。 警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。 27日午前9時に商工大臣が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。 高橋は事件後に位一等追陞されるとともにが贈られた。 斎藤実内大臣 [ ] 内大臣は、退役海軍大将であり第30代である。 長くを勤めていたところ、のにより引責辞任し、期にの称号を受けたあとし、首相がに武装将校らによって殺害されたのあとは、のの推薦を受けを率いる兼に任命され、によるなどの混迷した政局においてに融和的な政策をとり、を認めなかったを脱退するなどしたうえ、による政府批判の高まりからをしていたが、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受けたものである。 坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉が率いる襲撃部隊が、仲町三丁目(現:一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。 襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。 遺体からは四十数発ものが摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。 目の前で夫が蜂の巣にされるのを見た妻・春子は、「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとしたため腕に貫通を負った。 しかしそれでも春子はひるまず、なおも斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさっている。 春子の傷はすぐに手当がなされたものの化膿等によりその後一週間以上高熱が続いた。 春子はその後昭和46年(1971年)に98歳で死去するまで長寿を保ったが、最晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。 事件当夜に斎藤夫妻が着ていた衣服と斎藤の遺体から摘出された弾丸数発は、の斎藤実記念館に展示されている。 斎藤には事件後位一等が追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より特に(るい、お悔やみの言葉)を賜った。 なお外国勲章はでの海軍大臣引責辞任よりあとは受けていない。 鈴木貫太郎侍従長 [ ] 鈴木貫太郎侍従長 (ただし写真は連合艦隊司令長官当時のもの) (予備役海軍大将)は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えていたの地位にいたことから襲撃を受ける。 叛乱当日は、安藤輝三大尉が襲撃部隊を指揮し、第1小隊を曹長が、第2小隊を曹長が、予備隊を渡辺春吉軍曹が、機関銃隊を上村盛満軍曹が率い、(現:))の侍従長公邸に乱入した。 鈴木は、永田・堂込両小隊長から複数の拳銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さずをして立ち去った。 その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。 襲撃部隊の撤収後、鈴木たかは昭和天皇に直接電話し、宮内省の医師を派遣してくれるように依頼した。 この電話が襲撃事件を知らせる天皇への第一報となった。 安藤は、以前に鈴木侍従長を訪ね時局について話を聞いた事があり、互いに面識があった。 そのとき鈴木は自らの歴史観や国家観などを安藤に説き諭し、安藤に深い感銘を与えた。 安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。 あの人(鈴木)はのような人で懐が大きい人だ」と言い、何度も決起を思い止まろうとしたとも言われる。 その後、末期に内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常(で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作に関わることとなる。 鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。 安藤は自分の恩人だ」と語っていたという。 渡辺錠太郎教育総監 [ ] 渡辺錠太郎教育総監 陸軍教育総監の大将は、真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出したに関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。 これが青年将校らの怒りを買い、襲撃を受ける。 斎藤内大臣襲撃後の高橋少尉及び安田少尉が部隊を指揮し、時刻は遅く、午前6時過ぎに東京市2丁目の渡辺私邸を襲撃した。 ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。 殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことに対し、彼の身辺に「敵側」への内通者がいたという説もある。 殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女のを近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。 目前で父を殺された和子の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。 渡辺邸はから派遣された憲兵伍長及び憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は2階に上がったままで渡辺を守らず、渡辺一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという。 28日付で教育総監部本部長の中将が教育総監代理に就任した。 渡辺は事件後にを一等追陞されるとともにが追贈された。 牧野伸顕 [ ] 牧野前内大臣 牧野伸顕伯爵は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受けた。 河野寿大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。 玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査は、牧野伯爵を裏口から避難させたのち、襲撃部隊に対して拳銃で応射し、遅滞を図った。 これにより河野大尉が負傷したが、皆川巡査も重傷を負った。 このとき、牧野伯爵の付き添い看護婦であった森鈴江が皆川巡査を抱き起こして後送しようとしたが、皆川巡査は既に身動きが取れず、また森看護婦も負傷していたことから、襲撃部隊の放火によって炎上する邸内からの脱出は困難として、森看護婦のみを脱出させ、自らは殉職した。 なお、このとき重傷を負った河野は入院を余儀なくされ、入院中の3月6日に自殺する。 脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。 なお襲撃の際、旅館の主人・岩本亀三および従業員八亀広蔵が銃撃を受けて負傷している。 なおの娘で牧野の孫にあたるは、この日牧野をたずねて同旅館に訪れていた。 麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されているが、脱出に至る経緯については上の記述とは異なった内容となっている。 警視庁 [ ] 1月下旬から2月中旬にかけて反乱部隊の夜間演習が頻繁になっていたことなどから、では情勢の只ならぬことを察し、再三に渡ってに対して取り締りを要請したものの、取り合われなかった。 このことから、警視庁では(現在のに相当する)にを装備して対抗することすら検討していたが、実現しないままに事件発生を迎えることとなった。 警視庁との間には非常ベル回線が設けられており、官邸警備の警察官(小館喜代松巡査)により襲撃の報は直ちに警視庁に伝えられた。 警視庁は特別警備隊1個小隊(一説には1個中隊)を緊急出動させたが、官邸近くで反乱部隊に阻止されてされてしまった。 また、所轄のも官邸の異常を察知し、複数の警察官が個別に官邸に向かったが、いずれも次々に反乱部隊の阻止線で拘束され、官邸内に抑留されてしまった。 26日午前5時、野中四郎大尉が指揮する約500人の部隊 歩兵第3連隊第7中隊少尉以下156名、同第3中隊少尉以下152名、同第10中隊少尉以下142名、同機関銃隊立石利三郎曹長以下75名 が警視庁を襲撃、その圧倒的な兵力及び重火器によって、抵抗させる間もなく警視庁全体を制圧し、「の発動の停止」を宣言した。 この際、交換手の背に銃剣を突きつけて電話交換室を占拠し、警察電話を遮断することで警察の動きを封じようとしたが、兵士の電信電話知識の乏しさをつかれて、実際には全ての通信が維持されていた。 この電話手の働きにより、小栗一雄警視総監を始め各部長は、警視庁占拠直後より情勢を知らされた。 総監官舎の襲撃等も想定されたことから、総監・部長は急遽脱出して、まず麹町警察署で緊急の協議を行い、まず警務部長名で非常呼集を発令、本庁勤務員は部ごとに麹町、丸の内、錦町、表町の各警察署に、また各警察署の勤務員はそれぞれの所属署に集合・待機するよう命じた。 ついで、麹町警察署は反乱部隊の占領地域に近く、襲撃を受ける懸念が指摘されたことから、総監・部長はに移動し、ここに「非常警備総司令部」を設けた。 警視庁では、決死隊を募って本庁舎を奪還しようという強硬論も強かったものの、特高部長は、警察と軍隊が正面から衝突することによる人心の混乱を懸念して強く反対し、警視総監もこれを支持したことから、最終的に、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとした。 半蔵門に近い麹町警察署の署長室には当時、直通のが設置されており、午後8時、その電話が鳴ると、たまたま署長をに乗せて走り回る役目の巡査が出た。 一度「ヒロヒト、ヒロヒト…」と名乗り巡査が「どなたでしょうか」と訊ねるといちど電話が切れ、再度の電話では別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に名乗った人間が質問、巡査からは「鈴木侍従長の生存報告」「総理の安否は不明で、官邸は兵が囲んでいる」などの報告を受けた。 巡査は会話の中で、相手が「朕」の一人称を使ったことから昭和天皇だと理解し、体が震えたという。 電話の主はその後、「総理消息をはじめ情況を知りたいので見てくれ」と依頼し、巡査の名前を尋ねたが、巡査は「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯だったという。 作家のによれば、警視庁は青年将校たちが数日前より不穏な動きを見せているとの情報をある程度把握しており、斎藤内大臣にそれを知らせたが特に問題にされなかったという。 後藤文夫内相 [ ] 警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は、副総理格の後藤文夫内務大臣を殺害するために、内務大臣官邸 も襲撃して、これを占拠した。 歩兵第3連隊の少尉が襲撃部隊を指揮していた。 後藤本人は外出中で無事だった。 霞ヶ関・三宅坂一帯の占拠 [ ] 更に、反乱部隊は陸軍省及び、の(のちの)なども襲撃し、の中枢である、、、の一帯を占領した。 要望事項 [ ] 26日午前6時半ごろ香田大尉が陸相官邸で陸相に対する要望事項を朗読し村中が補足説明した。 現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる• 皇軍相撃つことは避けなければならない• 全憲兵を統制し一途の方針に進ませること• 警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること• 南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること• 速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと• 軍の中央部にある軍閥の中心人物(大佐(統帥権干犯事件 に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、中佐(に関するとなれあい、政治策動をなす)、少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与しの誣告をなす)を除くこと• 大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること• 大将を関東軍司令官に任命すること• 同志将校(大尉(歩61)、大尉(歩45)、大尉(歩12)、大尉(歩73)、大尉(砲25)、大尉(歩73)、大尉(歩5)、中尉(歩12)、大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること• 同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること• 報道を統制するため山下少将を招致すること• 次の者を陸相官邸に招致すること• 同じ頃、真崎甚三郎大将もからの連絡で事件を知った。 真崎は大将と邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。 午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。 本庄日記によると、午前5時、本庄繁のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。 本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。 そして本庄はに電話し、さらに宿直中の少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。 鈴木貫太郎の夫人・鈴木たかがに直接電話したことにより事件の第一報がもたらされた。 たかは皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係 にあった。 中島侍従武官に連絡を受けたが天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「全く私の不徳の致すところだ」と言って、しばらくは呆然としていた が、直ちに軍装に着替えて執務室に向かった。 またによれば天皇はこの第一報のときから「」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。 この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる。 襲撃された内大臣斎藤實私邸のからの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長 は、、元老西園寺公望の秘書、へ電話し、6時頃参内した。 すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた、侍従次長と対策を協議した。 温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。 青年将校たちは宮中グループの政治力を軽視し、事件の前も後もほとんど何も手を打たなかった。 宮中グループの支持を得られなかったことも青年将校グループの大きなミスであった。 午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。 川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古荘次官、真崎、山下を招致するよう命じた。 川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。 少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古荘次官が到着した。 午前8時過ぎ、 、、の3大将と少将が通過を許される。 真崎と山下は陸相官邸 を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。 26日早朝、大佐宅に、新聞班長である中佐から電話があり、事件の概要を知らせてきた。 その後、石原は軍事高級課員である中佐に電話をかけ「……いま鈴木から電話で知らせてきたが、三連隊の兵隊が一中隊ほど参謀本部と陸軍省を占領し、総理大臣と教育総監が殺されたそうだ。 そちらには何か知らせがないか。 こちらから役所に電話したが通じない……」と話し、直ちに参謀本部に出かけている。 歩兵第三連隊の麦屋清済少尉によれば、台上に張られた蹶起軍の歩哨線を、石原が肩を怒らせながら無理やり通行しようとしたため、蹶起軍の兵士たちは銃剣を突き付けながら「止まれ」と怒声を放ち、銃の引き金に手をかけている者もいたが、石原は少しもひるむことなく「新品少尉、ここを通せ!俺は参謀本部の石原大佐だ!」と逆に怒鳴り返してきた。 麦屋は石原との間でしばらく押し問答を繰り返した後に、石原に近寄って「貴方は今危険千万、死線はこれからも連続ですぞ。 私は貴方を誰よりも尊敬しています。 死線から貴方を守りたい。 どうかここを通らないで、軍人会館のほうに行ってください。 お願いです」とそっと耳打ちをしたという。 麦屋の懇望に対してやっと顔を縦に振った石原は「お前たちの気持ちはよく分かっておる」と言い残して、軍人会館の方向に向かっていったという。 このほか、当時は参謀本部第1部第3課の部員であった難波三十四砲兵大尉(陸士第35期。 終戦時は大佐、近衛第1師団参謀長、東京湾兵団参謀)が、「そろそろ薄明るくなってきた頃でしたが、どこから来たんじゃろう思うんですが、参謀本部第一部第二課、作戦をやる課ですな。 そこの課長の石原莞爾大佐がひとりでふらふらとやってきました。 そして日直の部屋から参謀次長のさんに電話をかけ、〝閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います〟とそれだけいうと、そのあたりを一巡して、また飄然としてどこかに行ってしまわれましたな。 平然としたものでした。 私たちには、まったく寝耳に水の出来事で何もわからなかったんですが、石原さんには誰かが知らせたんでしょうなあ」と証言している。 磯部浅一の『行動記』によれば、青年将校たちから「今日はお帰り下さい」と迫られた石原は「何が維新だ。 何も知らない下士官を巻き込んで維新がやりたかったら自分たちだけでやれ」と一喝し、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。 そして、執務室に入った石原に「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか? 」と質問すると、「俺にはよくわからん。 俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と答え、「こんなことはすぐやめろ、やめねばをもって討伐するぞ! 」と再び一喝したとある。 山本又予備役少尉の獄中手記『二・二六日本革命史』によれば、陸軍大臣官邸前に現われた石原は「このままではみっともない、君等の云う事をきく」と山本に言ったとされ、官邸内で磯部・村中・香田に「まけた」と言ったとある。 また、磯部がの少佐を撃った際の「白雪の鮮血を見驚いて」、「誰をやったんだ、誰をやったんだ」と叫んだ石原に、山本が「片倉少佐」と答えると「驚き黙然たり」だったという。 ただし、片倉衷少佐によれば、片倉が事件発生を知って陸軍大臣官邸に入り、陸軍大臣に面会しようとした時点で、既に石原は陸軍大臣官邸内におり、片倉は「これは誤解に基づくものです」と述べたところ、石原は「誤解も何もこうなったら仕方がない。 早く事態を収めることだ」と答えている。 なお、片倉は反乱軍側の青年将校に対して「昭和維新はお互いに考えていることだ。 俺も昭和維新については同じに思っている。 しかし尊王絶対の我らは統帥権を確立しなければいかん。 を動かしてはいかん」と説論している。 この時、陸軍大臣官邸前の玄関には真崎大将が仁王立ちしており、石原は真崎に向かって「お体はもうよいのですか。 お体の悪い人がエライ早いご出勤ですね、ここまで来たのも自業自得ですよ」と皮肉を交えて話しかけ、真崎は「朝呼ばれたのだから、まあ何とか早く纏めなければいかぬ」と答えている。 この際、陸軍大臣と陸軍次官が、真崎の左側に出て来て、古荘次官が石原を招いたが、この際に片倉は磯部浅一に頭部をピストルで撃たれている。 このとき片倉は「ヤルなら天皇陛下の命令でヤレ」と、怒号を発しながら、部下に支えられて現場を立ち去っている。 片倉はその後、銃弾摘出の手術が成功し、奇跡的に一命を取りとめている。 石原と皇道派の関係について、筒井清忠が真崎甚三郎と橋本欣五郎・石原の間に近接関係が構築されつつあったこと や、も訊問調書などの裁判資料に基づいて、石原の蹶起軍に対する態度が他の軍首脳と同様にグラついていたことを指摘している。 ただし、2月26日の夕刻に行われた石原と橋本の会談に関しては、橋本が「陛下に直接上奏して反乱軍将兵の大赦をおねがいし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する。 この案をあなたはどう思いますか。 」と質問し、これに対して石原が「賛成だ。 やってみよう。 だが、このことたるや、事まことに重大だ。 僕一人の所存できめるわけにはいかぬ。 いちおう参謀次長の了解を受けねばならぬ。 次長はあの部屋にいるから相談してくる。 待っててくれ」と言い残して席をはずして参謀次長の部屋に赴き、「ものの二十分もたったかと思うころ、(石原)大佐が帰ってきて杉山次長も賛成だからやろうじゃないか、ということに話がきまった」とされるが、杉山次長の手記には「賛成した」という表現はどこにもなく、実際は事件の早期解決を狙った石原が、「次長も賛成した」と橋本に嘘をついて、蹶起将校たちとの交渉を進めようとしていたことが指摘されている。 ちなみに橋本は、石原との会談前の2月26日の夕刻に反乱軍が占拠している陸軍大臣官邸に乗り込み、「野戦重砲第二連隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。 今回の壮挙まことに感激に堪えん!このさい一挙に断行の素志を貫徹するよう、及ばずながらこの橋本欣五郎お手伝いに推参した」と、時代劇の仇討ちもどきの台詞を吐いたが、蹶起将校の村中や磯部たちには有難迷惑であり、体よくあしらわれて追い返されている。 26日、荒木貞夫大将に会った石原莞爾大佐は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と面と向かって罵倒し、これに対して「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上、許せん!」と、えらいけんまくで言い返す荒木に対して石原は「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ」とくってかかり、両者は一蝕即発の事態になったが、その場にいた東京警備参謀長の取り成しで事なきを得ている。 真崎大将は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、海軍のとともにに面会した。 真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。 真崎大将は移動する車中で内閣案などを加藤に話したという。 参内した伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。 宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である。 」と取り合わなかった。 午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。 事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」 せよと命じた。 この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく問題にしていないことがあらためて明瞭になった。 また正午頃、迫水秘書官はに岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。 杉山元がの及びのを招致すべく上奏。 午後に元総理大臣が参内。 「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。 磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。 正午半過ぎ、前述の・・のほか、・・・・・・といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。 一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ 二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ 四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ 五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ この告示は少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。 しかしその直後、軍事課長大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。 正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。 午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。 26日午後3時に中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1に戦時警備を下令した(7月18日解除)。 戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。 結果的に、蹶起部隊は長中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。 午後3時、前述の告示がによって印刷・下達された。 しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が 諸子ノ 行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム と「行動」に差し替えられてしまった。 反乱部隊への参加者を多く出してしまった第一師団司令部では現状が追認されたものと考えこの告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする有様であった。 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。 この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。 一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト 二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。 閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル 前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。 反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。 午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣がに指名された。 後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。 その後、閣議が開かれて午後8時40分に施行が閣議決定された。 当初やはにつながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。 しかしすみやかな鎮圧を望んでいた天皇の意向を受け、の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。 行政戒厳であった。 午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。 蹶起者に同調的な将校の、橋本欣五郎、が列席した。 磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている。 「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。 またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった。 26日午後、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が、東溜りの間で開かれた軍事参議官会議を終えて退出する途中の川島義之陸軍大臣をつかまえて、事件の飛び火を警戒して日本全土にを布くことを強く進言している。 石原はすみやかに戒厳令を布いて反乱軍の討伐体制を整えようとしていた。 その直後に宮中に居合わせていた鉄道大臣は、石原を始めとする幕僚たちの強弁で傲慢な態度を目撃しており、「夕景に至る頃おいには、軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室(臨時閣議室)の隣室に陣取り、卓を叩いて聞えよがしに、戒厳令不発令の非を鳴らし、激烈な口調で喚きたてていたが、石原大佐ごときは帯剣をガチャつかせて、閣議室に乗り込み強談判におよんで来たので、僕らは『統帥部と直接交渉は断然ことわる、意見は陸相経由の場合のみ受取るから……』と、はねつけた」と証言している。 なお、このとき石原莞爾らが強引に推進した戒厳令の施行が、翌27日からの電話傍受の法的根拠に繋がっている。 なお当時、の校長だったは、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、然る後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。 石原同様、阿南も陸軍内では無派閥であった。 27日 [ ] 27日の施行を受けてに戒厳司令部が設立された 午前1時すぎ、、、らはに集まり、善後処置を協議した。 内閣案や、蹶起部隊を戒厳司令官の指揮下にいれ軍政上骨抜きにすることなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。 午前3時、戒厳令の施行によりのに戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の中将が戒厳司令官に、で大佐の石原が戒厳参謀にそれぞれ任命された。 しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。 「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣達を虐殺された天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」のが参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。 本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。 こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」 と一蹴した。 奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。 午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。 また午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。 天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになった。 午後2時に陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官と反乱軍将校の会談が行われた。 この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。 勇将真崎有リ。 国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」 という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。 真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。 相談後、野中大尉が「よくわかりました。 早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。 午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、、赤坂の「」を宿所にするよう命令が下った。 午後5時。 弘前より上京した秩父宮 がに到着。 秩父宮はすぐに天皇に拝謁したが、「陛下に叱られたよ」とうなだれていたという。 これは普段から皇道派青年将校たちに同情的だった秩父宮の姿勢を昭和天皇が叱ったものだとする説が支配的である。 午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。 夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った。 28日 [ ] 28日時点の反乱部隊の占拠 午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。 午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、戒厳司令官から第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。 小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。 香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。 自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。 この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。 しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。 朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体を引き締めを内外に表明してはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。 また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、陸軍軍務局長、参謀本部総務部長、戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。 香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は再び反対し、武力鎮圧を主張した。 正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。 これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場にを派遣してもらうことを提案した。 川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺するなら勝手にさせればよい。 このような者共に勅使など論外だ 」と非常な不満を示して叱責した。 しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。 自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。 午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。 結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。 形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。 午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。 同時刻、皇居には皇族7人(、、、、、、)が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した。 午後6時、蹶起部隊に対する小藤の指揮権を解除(同第11号)。 午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)。 また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。 午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。 一方の反乱部隊の側も、28日夜から29日にかけて、・部隊は首相官邸、・部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、部隊と部隊の1個小隊は赤坂見附の閑院宮邸附近、・部隊は山王ホテル、部隊は予備隊としてに布陣して包囲軍を迎え撃つ情勢となった。 帰順する下士官兵 ウィキソースに の原文があります。 29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。 戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えての東京中央放送局を憲兵隊で固めた。 同時に投降を呼びかけるビラ を飛行機 で散布した。 午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。 既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告 が放送され 、また田村町(現・)の飛行館 には「命下る に手向かふな」と記されたもあげられた。 また師団長を始めとする直属上官が涙を流して説得に当たった。 これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を計ったものの失敗した。 残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を想定して30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。 この際野中四郎大尉は自決したが 、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。 同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。 終焉 [ ] 3月4日午後2時25分に山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。 牧野伸顕襲撃に失敗して負傷しに収容されていた河野大尉は3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。 3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。 また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。 憲兵隊の動き [ ] 皇道派が陸軍内部で一大勢力を誇っていたこともあり、皇道派の精神は憲兵将校以下の頭にも深く浸透しており、反乱軍と同じ思想を持っている憲兵が大勢いた。 中には、「自己を犠牲にして蹶起した彼らの目的を達してやるのが武士の情である」と主張する者までいたという。 しかしながら、麹町憲兵分隊の特高主任をしていた曹長などは憲兵としての職務に忠実であり、岡田総理の救出を成功させるなどの活躍をしている。 しかしながら、憲兵隊内部に皇道派の勢力が事件後も浸透しており、憲兵隊内部では小坂らは評価されず、正面切って罵倒する将校までいたという。 海軍の動き [ ] 芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊(2月26日) 襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斎藤内大臣がいずれも海軍大将・海軍軍政の大物であったことから、東京市麹町区にあったは、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。 事件当初より、蜂起部隊を「反軍」と認識していた。 26日午後には(司令長官、参謀長)のを芝浦に上陸させて東京に急派した。 また、をに急行させ、27日午後には戦艦「」以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。 この警備は東京湾のみならずにも及び、27日午前9時40分に、海軍中将率いる『』以下各艦は、外に投錨した。 この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。 事件後の処理 [ ] 陸軍の統制派は2. 26事件の蹶起がもたらした状況を最大限に利用した。 政治の面では、岡田内閣の後継内閣の組閣過程に干渉し、軍部独裁政治を実現しようとした。 そして、陸軍内部では2. 26事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。 青年将校たちは統制派と対立していたが、青年将校たちが起こした2. 26事件は、皮肉にも統制派を利する結末となった。 そしてこれが、日本の軍部ファッショ化の本格的なスタートでもあった。 政府・宮中 [ ] 岡田総理の無事と事件後の政局を伝える新聞 事件の収拾後、岡田内閣はし、元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。 しかしが下った近衛文麿は西園寺と政治思想が合わなかったため、病気と称して断った。 一木枢密院議長がを西園寺に推薦した。 西園寺は同意し、広田に組閣大命が下った。 3月6日には新聞で新閣僚予定者の名簿も掲載され、親任式まで順調に進むかに思われた。 しかし陸軍は陸相声明として、「新内閣は自由主義的色彩を帯びてはならない」とまず釘をさした。 そして、陸軍省軍務局の中佐が陸相代理として組閣本部に乗り込み、、、、、などを名指しして、自由主義的な思想を持つと思われる閣僚候補者の排除にかかった。 広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。 反乱軍将校の免官等 [ ] 20名が2月29日付で、3月2日には山本も免官となる。 3月2日に山本元少尉を含む21名が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、 の返上が命ぜられる。 また、も褫奪された。 殉職・負傷者 [ ] 事件にあたって護衛にあたっていた5名の警察官がし、1名が重傷を負った。 これらの警察官は、を授けられ、内務大臣からを付与された。 国民からの反響も大きく、全国から弔文十万通、弔慰金21万9833円が集まり、4月30日に弔慰金受付の打ち切りが発表されると、抗議の投書が新聞社に殺到するほどであった。 築地本願寺において行われた合同警視庁葬においては数万人の市民が焼香した。 村上嘉茂衛門 巡査部長。 警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。 土井清松 巡査。 警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。 赤坂表町署から本庁へと異動した巡査で、のちに空襲カメラマンと言われたとは赤坂表町警察署勤務時代からの同僚だった。 清水与四郎 巡査。 警視庁杉並署兼麹町署勤務(総理官邸配置)。 彼の血で染まった庭の芝生は移植され警視庁警護課の窓辺に置かれている。 小館喜代松 巡査。 警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。 皆川義孝 巡査。 警視庁警務部警衛課勤務(牧野礼遇随衛)。 玉置英夫 巡査。 麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務(蔵相官邸配置)。 これが原因で戦後のも公安第3課の監視対象になっている。 この他に、の兵士4人が、暖房用の炭火による中毒で死亡するなど、鎮圧側部隊の兵士計6名が、29日から3月1日にかけて死亡している。 皇道派陸軍幹部 [ ] 事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、・・・の4名は3月10日付でに編入された。 侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。 陸軍大臣であったは3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。 やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長 に転出させられ、以後1940年(昭和15年)にを務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。 また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次のの時からが復活することになった。 この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。 事件当時憲兵司令官だったは、永田の仇打ちとばかり、当時満州にいた皇道派の軍人を根こそぎ逮捕して獄舎に送り、「これで少しは胸もすいた」と述懐した。 一方、事件に対する陸軍の責任をめぐってはで「それでは叛軍に参謀本部や陸軍省が占領されて、たとえ二日でも三日でも職務を停止させられた、その責任はだれが負うか」と追及されたが、結局うやむやにして、だれも責任を取らず、裁判にもかけなかった。 事件に関わった下士官兵 [ ] 以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。 「命令と服従」の関係が焦点となり、下士官・兵に対する処罰が軍法会議にかけられた。 無罪となった兵士たちは、それぞれの連隊に帰ったが、歩兵第1連隊も歩兵第3連隊もすでに渡満していたことから、彼らは留守部隊の所属となっていた。 そこで無罪放免となった歩兵第3連隊の兵隊たちのうち8名は渡満を希望し、8月上旬に東京を出発して満州北部のチチハルに駐在する歩兵第3連隊へと向かった。 しかし、ここで事件後に着任した連隊長から思いがけないことを言われた。 8人の中の1人だった春山安雄伍長勤務上等兵は証言している。 「到着するとすぐに本部に行き晴々した気持ちで連隊長に申告したところ、湯浅連隊長はいきなり『軍旗をよごした不忠者めが』と怒鳴り、軍旗の前に引き出され、散々にしぼられた」春山伍勤上等兵は「私たちは命令によって行動したのに不忠者とは何ごとか」と連隊長の言葉に反発し、思わずムッとして開き直った態度をとると、さらに、「何だ、その態度は! 」と一喝された。 反乱軍とみなされていたのは軍法会議に付された者ばかりではなかった。 歩兵第3連隊は5月22日に渡満の途についたが、出発に先立ち湯浅連隊長は「お前たちは事件に参加したのだから、渡満後は名誉挽回を目標に軍務に精励し、白骨となって帰還せよ」と訓示したという。 これに対して、歩兵第3連隊第3中隊の福田守次上等兵は「早い話が名誉挽回のため死んでお詫びせよという意味らしかった。 兵隊に対する激励の言葉とは思われず反発を感じた」と戦後に憤りを語っている。 こうした事情は歩兵第1連隊も同じで、歩兵第1連隊第11中隊の堀口真助二等兵の回想によると、歩兵第1連隊の新連隊長に着任した大佐も「汚名をすすぐために全員で帰還せよ」と発言したという。 事件に参加した兵たちは、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。 特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。 なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫(。 後の・。 当時は前座)や二等兵(後の、)がいる。 また、歩兵第1連隊には後にとして「」や「」といった東宝特撮映画を撮ることになるがいた。 反乱軍を出した部隊 [ ] 反乱軍を出した各部隊等では指揮官が責任を問われされた。 近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。 また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。 司令官は、1936年(昭和11年)4月2日に、中将から中将へ交代。 香椎浩平中将は、待命となり、同年7月10日に予備役に編入される。 師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、中将から中将へ交代。 橋本中将は同年7月10日、予備役編入。 旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、少将から少将へ交代。 大島少将は同年7月10日、予備役編入。 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、大佐から大佐へ交代。 園山大佐は同年7月10日、予備役編入。 師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、中将から中将へ交代。 堀中将は同年7月10日、予備役編入。 旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、少将から少将へ交代。 佐藤少将は同年7月10日、予備役編入。 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、大佐から大佐へ交代。 小藤大佐は同年7月10日、予備役編入。 旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、少将から少将へ交代。 工藤少将は同年7月10日、予備役編入。 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、大佐から大佐へ交代。 渋谷大佐は同年7月10日、予備役編入。 旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、少将から少将へ交代。 石田少将は同年7月10日、予備役編入。 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、大佐から大佐へ交代。 真井大佐は同年7月10日、予備役編入。 捜査・公判 [ ] 事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。 事件後、東條英機ら統制派は軍法会議によって皇道派の勢力を一掃し、結果としては陸軍では統制派の政治的発言力がますます強くなることとなった。 事件後に事件の捜査を行った(後に法務中将。 首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。 2月28日、陸軍省軍務課のらは厳罰主義により速やかに処断するために、による特設の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3月4日に東京陸軍軍法会議を設置した。 法定の特設軍法会議は戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。 特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官のはできず、制で非公開、かつなしという過酷で特異なものであった。 陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した陸軍省法務局長は「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。 東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。 迅速な裁判は、天皇自身の強い意向でもあった。 特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、天皇の裁可を経て3月4日に公布されたものである。 この日、天皇は侍従武官長に対して、裁判は迅速にやるべきことを述べた。 すなわち、「軍法会議の構成も定まりたることなるが、相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす。 此度の軍法会議の裁判長、及び判士には、正しく強き将校を任ずるを要す」と言ったのである。 実際、裁判は非公開の特設軍法会議の場で迅速に行われた。 その方法は、審理の内容を徹底して「反乱の四日間」に絞り込み、その動機についての審理を行わないことであった。 これは先の相沢事件の軍法会議が通常の公開の軍法会議の形で行われた結果、軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場となって報道も過熱し、被告人らの思想に同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる。 26事件の審理では非公開で、動機の審理もしないこととした結果、蹶起した青年将校らは「昭和維新の精神」を訴える機会を封じられてしまった。 当時の(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。 第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス 一 首魁ハ死刑ニ処ス 二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス 三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス 事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。 また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。 そして、陸軍法務官(明治法律学校卒業。 軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。 磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。 また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。 民間人を受け持っていた吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。 両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した。 軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。 そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。 匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が遺族およびのディレクターだった、作家の、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされたのは1988年のことである。 中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。 これに対して元被告であったは、「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」と反論した。 または、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている。 これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。 北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。 匂坂春平はのちに「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。 その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。 検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。 死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない」と話したという。 ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。 「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことがうかがえる。 公判記録は戦後に(GHQ)が押収したのち、返還されてに保管されていたことが1988年9月になって判明した。 だがこれらは関係者の実名が多く載せられているためか撮影・複写すら禁止されており、1993年に研究目的でようやく一部の閲覧が認められるようになった。 池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し、に出版した。 に放送された「 シリーズ二・二六事件後編『東京陸軍軍法会議 〜もう一つの二・二六事件〜』」において、初めて一部撮影が許可された。 民間人に関しては、が主任検事として事件の処理に当たった。 判決 [ ] 自決 [ ] 自決等 階級 氏名 職名 年齢 歩兵大尉 歩兵第3連隊第7中隊長 32歳 36期 航空兵大尉 所沢陸軍飛行学校操縦科学生 28歳 40期 階級・所属部隊・年齢等は事件当日のもの。 階級名の「陸軍」は省略した。 罪名中の「群集指揮等」とは「謀議参与又は群集指揮等」のこと。 以下各表について同じ。 第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡) [ ] 刑 罪名 階級 氏名 職名 死刑 (首魁) 歩兵大尉 歩兵第1旅団副官 37期 死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵大尉 歩兵第3連隊第6中隊長 38期 死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵中尉 歩兵第1連隊(機関銃隊)附 41期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊附 40期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊附 41期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 近衛歩兵第3連隊(第7中隊)附 41期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 歩兵第1連隊(第11中隊)附 43期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 歩兵第3連隊(第1中隊)附 44期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 砲兵中尉 野戦重砲兵第7連隊(第4中隊)附 45期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 工兵少尉 中島莞爾 鉄道第2連隊附(陸軍砲工学校分遣) 46期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 砲兵少尉 野砲兵第7連隊附(陸軍砲工学校分遣) 46期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 高橋太郎 歩兵第3連隊(第1中隊)附 46期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 歩兵第1連隊(機関銃隊)附 47期 死刑 叛乱罪(首魁) 元歩兵大尉 37期 死刑 叛乱罪(首魁) 元一等主計 38期 死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 元士官候補生 39期 無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 麦屋清済 歩兵第3連隊(第1中隊)附 幹候 無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 常盤稔 歩兵第3連隊(第7中隊)附 47期 無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 鈴木金次郎 歩兵第3連隊(第10中隊)附 47期 無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 歩兵第3連隊(第3中隊)附 47期 無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 歩兵第1連隊(第1中隊)附 47期 禁錮4年 歩兵少尉 今泉義道 近衛歩兵第3連隊(第7中隊)附 47期 伯、侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。 、磯部浅一・村中孝次を除く15名の刑が執行された。 第2次処断(7月29日判決言渡) [ ] 刑 罪名 階級 氏名 職名 無期禁錮 叛乱者を利す 歩兵大尉 歩兵第1連隊第7中隊長 33期 禁錮4年 叛乱者を利す 歩兵中尉 柳下良二 歩兵第3連隊(機関銃隊)附 45期 禁錮6年 司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る 歩兵中尉 新井勲 歩兵第3連隊(第10中隊)附 43期 禁錮6年 叛乱予備 一等主計 鈴木五郎 38期 禁錮4年 叛乱予備 歩兵中尉 井上辰雄 豊橋陸軍教導学校附 43期 禁錮4年 叛乱予備 歩兵中尉 塩田淑夫 44期 背後関係処断(昭和12年1月18日判決言渡) [ ] 刑 罪名 階級 氏名 職名 禁錮3年 歩兵中佐 兵学教官 26期 禁錮5年 歩兵大尉 菅波三郎 第1 37期 禁錮4年 歩兵大尉 第2中隊長 37期 禁錮4年 歩兵大尉 末松太平 隊長 39期 禁錮3年 歩兵中尉 志村陸城 歩兵第5連隊附 44期 禁錮1年6月 歩兵中尉 志岐孝人 44期 禁錮5年 予備少将 12期 禁錮2年 越村捨次郎 禁錮3年 福井幸 禁錮3年 町田専蔵 禁錮1年6月 宮本正之 禁錮2年(執行猶予4年) 加藤春海 禁錮1年6月(執行猶予4年) 佐藤正三 禁錮1年6月(執行猶予4年) 宮本誠三 禁錮1年6月(執行猶予4年) 杉田省吾 背後関係処断(昭和12年8月14日判決言渡) [ ] 刑 罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢 死刑 叛乱罪(首魁) 52歳 死刑 叛乱罪(首魁) 元騎兵少尉 34歳 無期禁錮 叛乱罪(謀議参与) 禁錮3年 叛乱罪(諸般の職務に従事) 1937年(昭和12年)8月19日に、北一輝・西田税・磯部浅一・村中孝次の刑が執行された。 真崎の事件関与 [ ] 事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。 皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。 論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る。 もっとも、1936年3月10日に真崎大将は予備役に編入される。 つまり事実上の解雇である。 彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが、当時の新聞から窺える。 また、26日に蹶起を知った際には連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったという。 一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げた、と証言している。 鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。 万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。 そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えた。 また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。 しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。 ヨウッーわかっとる。 」と声を掛けたとされ 、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。 このことから真崎大将の関与を指摘する主張もある。 一方、当時真崎大将の護衛であった憲兵伍長(第21期、昭和19年9月1日調では北部憲兵隊司令部附、憲兵中尉)の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。 ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。 牧野伸顕のところからは確報はありません。 目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。 また、終戦後にの被告となった真崎大将の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。 だから当然無罪にした」と戦後に証言している。 決起した青年将校には、天皇主義グループ(主として実戦指揮官など)と改造主義グループ(政情変革を狙っており、北一輝の思想に影響を受けた磯部、栗原など)があり、特に後者はクーデター後を睨んで宮中などへの上部工作を行った。 また陸軍省・参謀本部ではクーデターが万一成就した時の仮政府について下記のように予想していた。 内閣総理大臣 真崎甚三郎• 内大臣あるいは参謀総長 荒木貞夫• 陸軍大臣 あるいは• 大蔵大臣 あるいは• 司法大臣• (不詳) 北一輝• 内閣書記官長 西田税 推理作家のは「」で 「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。 彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。 真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。 (略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。 この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた。 」 と主張している。 磯部は、5月5日の第5回公判で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5月6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。 ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。 また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている。 『二・二六事件』で真崎黒幕説を唱えたは、1989年2月22日、その説に異を唱えるに対し、の立ち会いのもとで、「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」と言った。 青年将校は相沢裁判を通じて、を救うことに全力を挙げていたのに、突然それを苦境に陥れるような方針に転じたのは、2・26事件により相沢を救いだせると、何人かに錯覚に陥れられたのではないかと考えられること、公が事件を予知して静岡に避けていたこと、2・26事件は少将の言によれば、思想、計画ともに十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性のあること、2月26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なることから幕僚派の計画であると考えられること、磯部浅一との法廷の対決において、磯部が真崎に彼らの術中に落ちたと言い、追求しようとすると、沢田法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎は述べている。 また、法務官は内大臣らの意向を受けて、真崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、小川が裁判長に対して、真崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、磯村は大いに怒り裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、杉山元の仲裁で、要領の得ない判決文で折り合うことになったことも述べている。 1936年12月21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。 刑 罪名 階級 氏名 職名 無罪 叛乱者を利す 大将 9期 その他判決 [ ] 刑 罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢 死刑 水上源一 27歳 禁錮15年 予備歩兵曹長 中島清治 28歳 禁錮15年 予備歩兵曹長 宮田晃 27歳 禁錮15年 軍曹 宇治野時参 歩兵第1連隊 24歳 禁錮15年 予備歩兵上等兵 黒田昶 25歳 禁錮15年 一等兵 黒沢鶴一 歩兵第1連隊 21歳 禁錮15年 綿引正三 22歳 禁錮10年 予備歩兵少尉 山本又 42歳 水上源一は、河野大尉と共に湯河原での牧野伸顕襲撃に加わったメンバーで、一連の事件に直接関わった民間人で唯一死刑に処せられた。 刑の執行 [ ] 二・二六事件慰霊碑(東京都渋谷区宇田川町1-1) 昭和11年7月12日の刑の執行では首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧敷地にて15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。 当日、刑場の隣にあったでは刑の執行の少し前から、小部隊が演習を行ったが、これは処刑時の発砲音が外部に知られないようにする為だったという。 二・二六事件の死没者を慰霊する碑が、東京都(隣)にある。 旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。 17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志によりのに葬られている。 またこれとは別に、の内に墓碑があり、毎年2月26日・7月12日に合同慰霊祭が行われている。 事件当時の政界・軍部の首脳等 [ ] 皇族 [ ]• :第3大隊長(陸軍歩兵少佐、陸士第34期)• :甲種学生(海軍少佐、海兵第52期)• :生徒(、陸士第48期騎兵科)• :参謀総長()• :軍令部総長()• :(予備海軍少佐)• :騎兵第10連隊長(陸軍騎兵中佐、陸士第32期)• :員(海軍少佐、海兵第49期)• :(元帥陸軍大将、陸士第7期)• :(陸軍中将、陸士第20期)• :歩兵第1連隊附(陸軍歩兵中尉、陸士第45期)• :軍事参議官(陸軍中将、陸士第20期)• :近衛野砲兵連隊附(陸軍砲兵中尉、陸士第43期)• :騎兵第1連隊附(陸軍騎兵少尉、陸士第42期)• :(陸軍騎兵大尉、陸士第34期) 内閣(閣僚) [ ]• :() 内閣(その他) [ ]• :(退役陸軍歩兵大佐、陸士第5期)• 内閣総理大臣秘書官:• 内閣総理大臣秘書官: 内務省 [ ]• : 陸軍 [ ] 陸軍省 [ ]• :(陸軍大将、陸士第10期)• :(陸軍中将、陸士第14期)• :(陸軍中将、陸士第15期)• 軍事課長:(陸軍歩兵大佐、陸士第22期)• 人事局長:(陸軍少将、陸士第17期)• 兵器局長:(陸軍少将、陸士第15期)• 整備局長:(陸軍少将、陸士第18期)• 経理局長:• 医務局長:• 法務局長: 参謀本部 [ ]• :(陸軍中将、陸士第12期)• :(陸軍歩兵大佐、陸士第21期) 官衙・部隊等 [ ]• 兼:(陸軍中将、陸士第12期)• 東京警備参謀長兼東部防衛参謀長:(陸軍少将、陸士第18期首席)• :(陸軍中将、陸士第14期)• :(陸軍中将、陸士第13期)• :(陸軍歩兵大佐、陸士第20期)• :(陸軍歩兵大佐、陸士第18期)• :(陸軍中将、陸士第15期) 海軍 [ ]• :(海軍大将、海兵第24期)• :(海軍中将、海兵第31期)• :(海軍中将、海兵第33期)• 軍需局長:• 人事局長:(海軍少将、海兵第35期)• 教育局長:(海軍少将、海兵第34期)• 経理局長:• 軍医局長:• 法務局長:• 兼:(海軍中将、海兵第29期)• 連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長:(海軍少将、海兵第35期)• 連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀:(海軍大佐、海兵第40期)• 連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀:(海軍中佐、海兵第44期)• 連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀:(海軍中佐、海兵第44期)• :(海軍中将、海兵第29期)• 横須賀鎮守府参謀長:(海軍少将、海兵第37期)• 戦艦「」艦長:(海軍大佐、海兵第37期)• 戦艦「扶桑」:(海軍中佐、海兵第46期)• 戦艦「」艦長:(海軍大佐、海兵第37期) 政界 [ ]• :()• 総裁: その他 [ ]• :(公爵)• :(男爵)• :(海軍大将)• :(海軍大将)• :(陸軍大将)• : 事件後に自殺した軍関係者(決起者以外) [ ] 1936年(昭和11年)2月29日朝、近衛輜重兵大隊の青島健吉中尉が自宅にて、軍刀で腹一文字に切腹し喉を突いて自死しているのが発見された。 妻も後を追って、腰に毛布を巻いて日本刀で喉を突き、一緒に自刃していた。 2月29日朝、歩兵第一連隊の岡沢兼吉軍曹が麻布区市兵衛町の民家の土間で拳銃自殺。 3月2日、東京憲兵隊麹町憲兵分隊の田辺正三憲兵上等兵が、同分隊内で拳銃自殺。 3月16日、電信第一連隊の稲葉五郎軍曹が、同連隊内で騎銃で胸部を撃った。 10月18日、三月事件や十月事件にも関係した歩兵大尉(陸士第33期首席)が世田谷の自宅で拳銃自殺した。 遺書はなく、翌10月19日「二・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自宅において自決せり」と陸軍省から発表された。 田中大尉は「帝都における決行を援け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐吉らの帝国ホテルでの画策にも係わっていた。 田中大尉は以来、橋本欣五郎の腹心の一人であった事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起要請の電報を発送しようとしたが、中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差し押さえられた。 その事実が裁判で明るみに出そうになったので、田中大尉は一切の責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた。 であった大岸頼好大尉は直接事件に関係ないにもかかわらず、その指導力を恐れられて、予備役に編入された。 部下のをしていた後宮二郎少尉(陸士第48期)は、父である陸軍省人事局長少将(のち大将)が下したその処分を不当として、自殺した。 [ ] なお、同少尉の自殺動機については、死亡前日の式典での軍人勅諭奉読中に読み間違えをし、歩兵第61聯隊内で拳銃自殺したとの説もあり、現在でも真相は不明である。 昭和天皇に与えた影響 [ ] 2. 26事件の蹶起当初は、陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し青年将校らの「昭和維新」を助けようとする動きもあった。 たとえば、蹶起当日の2月26日に出された陸軍大臣告示では、青年将校らの真情を認める記述もあり、全般的に蹶起部隊に相当に甘い内容であった。 2月28日に決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の中将も、蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、すぐには実力行使に出なかった。 「事件経過」の項で述べられた通り、本庄侍従武官長は何度も蹶起将校らの真情を上奏した。 このように、の上層部も含めて「昭和維新」を助けようとする動きは多くあった。 しかしながら、これらは全ての強い意志により拒絶され、結果として蹶起は鎮圧される方向に向かったのである。 青年将校らは、君側の奸を排除すれば、天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていたが、その思惑は外れたのである。 これについて、蹶起将校の一人であるは、事件後の獄中手記の中で、昭和天皇について次のように書いている「陛下が私共の挙を御きき遊ばして、『日本もロシアの様になりましたね』と云うことを側近に云われたとのことを耳にして、私は数日間狂いました。 『日本もロシアの様になりましたね』とは将して如何なる御聖旨か俄かにはわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動が、ロシア革命当時のそれであると云う意味らしいとのことをソク聞した時には、ももないものかと思い、神仏を恨みました」。 は1917年 大正7年 、2. 26事件の19年前にあたり、昭和天皇が16歳の時に起こった事件である。 ロシア革命の最終段階では軍が反乱に協力し、最後の皇帝は、一家ともどもされた。 昭和天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と言ったとすれば、天皇家がロシア王家と同じ運命を辿ることを危惧していたのを考えられる。 もともと下では、天皇はする国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「」の像を叩き込まれていた(の処理に関して、を叱責・退陣させて以降は、その傾向がさらに強まった)。 二・二六事件は首相不在、不在、不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。 戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時のの二つを挙げている(なお偶然ながら、どちらの件もが関わっている)。 に基づき設置された思想犯保護観察所の一覧。 それでも、この事件に対する昭和天皇の衝撃とは深かったようで、事件41周年の1977年(昭和52年)2月26日に、就寝前に側近のに「は何もないか」と尋ねていた。 思想犯保護観察所の設置 [ ] 総辞職の後の5月、は(昭和11年5月29日法律第29号)を成立させ全国に思想犯保護観察所を設置。 思想犯保護観察団体にはなども加わっていた。 題材にした作品 [ ] 小説• 叛乱(1952年、)• 貴族の階段(1959年、)• (1961年、)• いやな感じ(1963年、)• (1966年、三島由紀夫)• (1966年、)• 落日の門(1993年、)• (1994年 - 1995年、)• 邪神たちの2・26(1994年、)• 陛下(1996年、)• ねじの回転(2002年、)• (2008年、) 戯曲• (1961年、三島由紀夫)• 貴族の階段(1984年、)-武田泰淳の同名作を化 映画• 叛乱(1954年、)• 貴族の階段(1959年、)• (1962年、)• 銃殺(1964年、東映)• (1966年、)• (1966年、)• 宴(1967年、)• (1969年、東映)• (1970年、)• 第二部 愛と悲しみの山河(1971年、日活)• (1989年、フィーチャーフィルムエンタープライズ)• (1990年、サムエンタープライズグループ)• (2003年、「スパイ・ゾルゲ」製作委員会) テレビドラマ• ドキュメンタリードラマ 二・二六事件 目撃者の証言(1976年3月7日、日本テレビ)• 妻たちの二・二六事件(1976年11月4日-11月25日、NHK)• (1984年、NHK大河ドラマ)• 密愛 2. 26に散った恋(1991年2月20日、日本テレビ「水曜グランドロマン」) ドキュメンタリー• 「戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」 (1979年、)• NHK特集「二・二六事件 消された真実〜陸軍軍法会議秘録」 (1988年、NHK)• 「シリーズ二・二六事件」(全二回)(2001年2月14日・21日、NHK)• 前編「謎の「大臣告示」」• 後編「東京陸軍軍法会議 〜もう一つの二・二六事件〜」• 「徹底検証 二・二六事件~日本をどう変えたのか?~」(2013年2月21日、)• 「二・二六事件 奇跡の脱出劇」(2016年2月24日、)• 「全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~」(2019年8月15日、NHK総合テレビジョン) バレエ• M(1993年、音楽、振付) 漫画• 哀国戦争(原作:、画: )• 叛乱! 二・二六事件(監修:、脚本:、作画: )• (原作: )• 二・二六事件 雪降リ止マズ(監修:、作画: )• 夜叉鴉(原作: )• (2016年、 ) 楽曲• 日本政変・雪ノサムライ(作詞・作曲・歌:) アニメ• (TV未放送分) ノンフィクション• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 当時の総理大臣の年俸が8,000円であったことから、年額2万円は相当な額であるとは書いている。 が満洲にいるとき、やが訪ねてきて、の傘下に入れば優遇すると言ってきた。 断ると陰に陽に圧迫が加わってきた。 2人を行政処分によって、免官とした。 陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、受恩給年限に達する前には行政処分による免官はできない。 裁判によるべきこととなっていた。 2人はこの処分を、非合法なりとして反対し、われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、上で非合法をやるなら、俺たちも非合法を採らざるを得ないというにいたった、とは述べている。 事件後岳父の本庄大将に宛てて「三年ばかり前に私はある勧誘を受けました。 それは万一、皇道派の青年将校が蹶起したら、これを機会に、青年将校および老将軍連中を一網打尽に討伐して軍権政権を一手に掌握しようという大策謀であります。 計画者は、、、それからのであります」という文章を書き送った。 教育総監更迭• 1935年12月ごろ、ある青年将校は山口大尉に「我々第一師団は来年の三月には北満へ派遣されるんです。 防波堤の我々が東京を空にしたら、侵略派の連中が何を仕出かすか知れたものじゃありません。 内閣がこう弱体では統制派の思う壷にまた戦争です。 我々は今戦争しちゃ駄目だというんです」と述べている。 幕僚らの中には、戦争こそ勲章や立身出世を勝ち得る大切な道具と考える者がおり、殊に満洲事変で一部の者がやを釣り出してから、彼らの眼玉の光は異常に輝き出した。 の「天皇III」(文春文庫、新版カゼット出版 2007年)では、野中の遺書をもとに村中孝次が草案を書き上げ、西田税が村中と話し合って3分の2ほどに縮小修正したとなっている。 山下奉文少将は決起趣意書の草案を見ており、筆まで加えたと栗原安秀は述べている。 首謀者たちはかなり以前から、実弾演習の際にの員数確認をごまかしたりして実弾を隠匿し、決起に備えていたが、それだけで足りるはずもなく、歩兵第3連隊は首謀者である安藤が週番司令であったのでその命令によって武器弾薬を調達し、歩兵第1連隊の場合は山口の黙認のもとで栗原らが弾薬庫警備の下士官らを脅し、軟禁して武器弾薬を用意している。 岡田首相と姻戚関係にある丹生中尉が襲撃前に耳打ちした事実がある。 の「生きている二.二六」(文藝春秋 1987年)では、女中部屋に料理番の老人が風邪のため寝ているという知らせがあったとあり、筆者が見廻りの最中に女中部屋の押入れの中に老人を確認している。 作家の『』によれば、特別警備隊の存在は決起部隊にとって問題にはならぬ存在であり、警視庁に大部隊をあてた真意は宮城の占拠にあったのではないかとしている。 同書によればその根拠として、• 帝都に異常事態が発生した場合に宮城守備の増援につく当番部隊が、決起の日にあわせて中橋の部隊であったこと。 (異常事態の発生など滅多にあることでは無いので、増援当番部隊の決定は連隊内でやりくりできた)• 高橋是清を襲撃した後ただちに宮城内に入った中橋が手旗信号をもって警視庁の部隊と連絡を取ろうとして取り押さえられた事実(その後、中橋は部下を残して単独で脱出) をあげている。 時期尚早、実現困難として最後まで決起に慎重であった安藤が決断したのは、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊の週番司令が山口と安藤自ら、宮城警備の当番が中橋で、皇居坂下門の目と鼻の先の警視庁に、自分が参加することによって大部隊を配置する計画を立てられたからではないか、と述べている。 現在は跡地にが置かれている。 真崎教育総監罷免事件• 走り書きには「今出たから、よろしく頼む」とだけ書いてあった。 当時高等科の二年生だった(後に東宮侍従長)は、二・二六事件が起こる前夜、級友の(木戸幸一の長男)から「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」と電話を受けたという。 真崎大将の護衛憲兵として真崎の身辺にあった渋谷憲兵分隊の金子憲兵伍長の報告書によると、午前7時15分に陸相官邸到着、午前8時20分、伏見軍令部総長宮邸に到着。 また午前8時10分陸相官邸表玄関を出た際、磯部が片倉にを発砲し、拳銃を落とした後で殺害しようとしていたので、真崎大将と古荘次官が「同士討ちはやめ」と発言、制止した。 当時の麹町区永田町一ノ一。 叛乱軍が占拠していた。 「天皇III」では天皇は「事件を鎮定せよ」と陸相に述べた後に「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と再度声を掛けている。 2つめの発言では部隊を「暴徒」と明確にしている。 軍事参議官にはこのような告示を出す権限がなかったので川島陸軍大臣の承諾を得て告示として出された。 なお、原文には閣僚と協議した旨の記述があるが、実際には協議されていない。 この際、川島陸相の辞表の内容が他の大臣と同じであったことに天皇は不快感を示している。 北は第5回公判で、「被告は真崎に一任して『法案』の実現を企図したのではないか」とのの追及に対し、「ただ時局収拾に関し一般にも青年将校にも信頼の厚い同大将が適当と感じたるのみであります」と答えた。 一部青年将校は台湾軍司令官として任地にある柳川中将を内閣首班として要求していたという。 前日午前中、高松宮より電話連絡を受けていた。 午前3時頃少佐が勧告ビラの撒布を思い付き、午前中いっぱい時間の猶予をもらうことを8人の軍事参事官にお願いし、寺内大将が戒厳司令官に交渉したという• 近衛師団所属の飛行機3機を戒厳司令部直轄とした上で午前7時55分に羽田から発進させた。 上空からビラを撒くのみならず、威嚇飛行も行わせたという。 、で聴くことが出来る。 ビラと若干内容が違い「帰順すれば罪は赦される」の文が入っており、事件後陸軍刑法違反ではないかと問題とされた。 午前8時30分頃、反乱軍の兵隊の家族との昨夜からの騒動の情報が戒厳司令部にもたらされ、大佐が少佐にラジオ放送をするよう命じ、大久保は一気呵成に書きなぐった。 このラジオ放送は承認無し・誰がいつの間にやらせたのかも全く分からない、で一時問題になり、越権行為だという声もあったが、この放送に対する感謝感激の手紙が全国から1600通戒厳司令官に届いたという。 1978年に全面改築され「航空会館」になっている• 部下がその瞬間制止したので手許が狂って失敗した。 野中大尉は自殺しないように一同を説得している途中、山下、長屋、井出の3大佐に外へ連れ出され、それきり帰ってこなかった。 自殺は絶対不可で生き永らえて法廷で陳述しなければならない、と最も強硬に主張していた野中大尉が自殺するはずがない、あれは他殺だというのが、蹶起した同志の解釈である。 は、は、はであった。 当時は朝鮮のに司令部があった。 山下自身は事件後には軍から身を引く覚悟も固めていたが、川島陸軍大臣の慰留によって40旅団長への転任に落ち着いた。 中田はNHK特集「二・二六事件 消された真実〜陸軍軍法会議秘録」でこれを取り上げ、澤地は『雪は汚れていた』として刊行した。 出典 [ ]• 山崎国紀『磯部浅一と二・二六事件』(河出書房新社、平成1年)• 高橋正衛 『二・二六事件 「昭和維新」の思想と行動』 中公新書、増補新版1994年• 21-30, 第一部 首相官邸襲撃-「貴様のお父さんが亡くなられた」• 神戸大学附属図書館新聞記事文庫、2016年8月10日閲覧。 Storry 1957 , p. 137• Shillony 1973 , p. 37-38• Crowley 1962 , p. 310• Crowley 1962 , p. 313-14. Storry 1957 , p. 137-143• 太平洋戦争研究会編 『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年) p. 192• Crowley 1962 , p. 311-12• Shillony 1973 , p. 太平洋戦争研究会編 『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年) p. 166• 陸軍省と参謀本部のこと• 太平洋戦争研究会編 『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年) p. 112-113• 太平洋戦争研究会編 『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年) p. 174• Shillony 1973 , p. x, 60, 64? 68, 70• Crowley 1962 , p. 311-12• Kita 2003 , p. 13-16, 19• Shillony 1973 , p. Crowley 1962 , p. 311• Shillony 1973 , p. 39, 55• Kita 2003 , p. Shillony 1973 , p.

次の

二・二六事件慰霊像

二 二 六 事件 成功 し てい たら

二・二六事件とは、6年(11年)から29日にかけておきた陸軍皇の将校によってされた・反乱未遂事件。 概要 当時の陸軍内部では皇と呼ばれる・親政()を掲げる一と、合法的な手段で防体制を固めようと言う統制の対立が起きていた。 にを歴任した将官が多かった皇は将校の支持を集め、警した統制は切り崩しや弾圧を加えた。 これに対し皇は様々な事件を起こすが権握には結びつかず、自分たちが除隊や送りされている間に中央に残った統制が全に権を握することを恐れた将校たちが事態打開のために起こしたのが本である。 しかし、結果は失敗に終わり、犯行の多くはに処せられた。 事件までの経緯 皇と統制の対立は10年(11年)のデン・デンの密約にまで遡る。 中だった寧次、駐在武官の山、館付武官敏四郎は来るべき次のとの防についてのデン・デンにおいて会合をもった。 に軍の化とを中心とした閥人事の一新、政の革を掲げる点ではが一致し、帰後もしばらくは親密な付き合いが存在した。 ()にはを集めた会が結成され、陸軍内でも視できない存在となる。 しかし、はの意思に反して貞一と組み、4年(19年)に一夕会を結成する。 会合を重ねると前年に作霖事件が起きていたこともあり、満対策にが当てられ武解決で一致。 事件のを作り、6年(1年)に実行させた。 また、この事件に呼応して会と呼ばれた将校や者の北が未遂事件を起こす(事件)。 人事面でも彼らに理解があるとされたが陸軍大臣になり、翌年には崎甚が参謀次長、十郎が総監となり優位に進めた。 ここまでは紆余曲折を経ながらも協体制にあったとであったが、の解決に忙殺され会のに支障が出始めた。 さらに、へと拡大したことによりとのも大幅に拡大されたが、この対ソ政策を巡って両者はしく対立を開始。 7年(2年)後半、反ソ・・皇と親ソ・・統制に一夕会は分裂した。 また、会も事件の失敗と弾圧を機に統制に合流した軍人と皇に接近する人に分裂する。 これら佐官たちの権闘争は将校たちにも飛び火。 会を離れたた北は将校たちと接触し、の必要性を説いた。 をにした不況や農村の疲弊、財政界の汚職事件の多発もありこれを憂いていた三、四郎、香田清貞、安秀、中基明、丹生忠、浅一、孝次らの支持を取り付けることに成功する。 この尉官たちの策動に感を抱いた陸軍上層部は将校らに活動から身を引くように説得。 しかし、将校たちは応じず、9年(4年)に計画が露呈し、とをした(ただし、この事件は統制のでっちあげ説が根強い)。 だが、この事件を経ても将校らの反発は収まらなかった。 10年(5年)、とは法廷闘争により陸軍上層部との対決を望むが視された上で免官される。 同年には皇の崎甚総監が罷免され、皇と統制の争いは一触即発の状況へと突入した。 同年、の陸軍省において統制の中心人物であったがに殺される事件が発生(事件)。 しかし、皇への粛軍は収まることはなく、11年(6年)には将校たちが属していた第一師団にへのが決定される。 中央政局からへの排除と受け取った将校らは追い詰められ、ここに起死回生を図るべくを実行した。 事件の経過 中心人物は四郎とされる。 彼は実行使を三を叱し、決起を実現させた。 また、とは前年から軍上層部と接触し、についての了承を得ていたと言われる(実際は曖昧な態度でを濁されただけとされる)。 標は啓介とその閣僚を殺、の勅を経た後に崎をに据えた上で反対をすると言うものだった。 (あるいは日)、自らの中隊を率いた将校たちは連隊の庫からを接収して出動。 第一連隊の週番だったはであったためこれを黙認した。 第三連隊については自身が週番であったため自ら接収。 襲撃は即座に実行され、蔵相、実内大臣、錠総監が殺される(啓介は義であった伝蔵がとなり殺されているうちにに逃走し事。 従長は重傷を負ったが妻の機転により止めを刺されずに生還。 湯にいた伸顕元内大臣も別働隊の襲撃を受けたが生還している。 また、啓介の警護に当たっていた官四人は殺されている)。 事件後、彼らが率いる3名の兵により、、、坂は占領された。 黙認して出発を見送ったは義であった本繁に連絡し、ここから従を通じてに伝えられた。 は将校らが不法に軍を動かしたことと、信頼していた重臣たちが殺されたことにされたとされ、い段階から鎮圧をめた。 また、元老の望ら宮中も信任していた実の殺に。 いかなる政変・組閣も認めない態度を取り、将校らの思惑は当初から外れていた。 この一連のの意向を知る由もない将校らは使者から決起趣意書がに伝わったことを知り、さらに決起趣意書をもとに大詔案が作られていると言う誤報もあって成功を確信したと言う。 また、陸軍同士が相討つことを避けたい上層部の曖昧な態度もあり、26は楽観的なが漂っていた。 27日午前三時、厳が敷かれたが、将校らの部隊は「決起部隊」とされとは認められていなかった。 しかし、この陸軍の曖昧な態度はのに触れ、原状回復を命じる奉勅命が下される。 には拝謁に訪れた陸軍大臣に対して「陸軍が動かないなら私自らが師団を率いて鎮圧する」とまで述べて決意を表明した。 また、ちょうどこの頃になり啓介のがになったため倒閣は成立せず、陸軍もようやく鎮圧に向けた行動を取るようになる。 日、将校らに奉勅命が伝わる。 また、厳官として決起部隊の包囲に当たっていた浩は皇であったため、即座の鎮圧は回避し説得に当たった。 には奉文がされ「鎮圧の奉勅命が出るのは時間の問題であること」を告げた。 将校らは「勅使による命と見届け」を条件とした撤兵案を提示するが、したは「するなら勝手にさせればよい」とこれを一蹴した。 午後四時、ついに厳部において鎮圧の決定がなされ29日午前五時には準備が了するように下された。 午後十一時、「反乱部隊」と言う呼称も定められの失敗はになった。 29日午前八時三十分、攻撃命が下された。 同時にやアド、チラシを使った下士官・兵に対する投降勧告がなされ、多くの兵卒たちは戦うことなく現場を離れ始めた。 師自らが説得にあたり、午後二時には反乱部隊は解体された。 ・はを図ったが、は失敗。 その他の将校らも午後五時にはされ事件は終結した。 軍はを期待し、のまで用意していたが将校らは法廷闘争を決め込んだと言う。 裁判 の将校は当日に免官となり、関係者も中には全て免官となった。 また、北・税間人も反乱の首謀者としてされた。 法廷闘争で世間に訴えると言う将校らの思惑は外れた。 緊急勅による非開かつ一審の特設軍法が設けられたためである。 これは通常の軍法では開かつ三審のため、陸軍内の速かつ内密に裁判を進めたいと言う意思が反映されたと言う。 に不当な裁判だったが、当初将校らは類似事件のと同様に軽い罪で済むと楽観視していた。 刑時も「どうせもっけて後で情状酌量をする算段」とうそぶいたと言う。 しかし、判決直前のになり事件のが処刑されたことを知ると、その楽観論も吹き飛びを覚悟したとされる。 、第一次判決が下され以下名の将校に判決が下された。 史上でも稀に見る大量処刑であり、覚悟していたもした。 、このうちを含めた15名は処刑された。 には残っていたとも処刑され、積極的な参加者はほぼが処刑されると言う末であった。 また、北と税も処刑された。 一方、皇上層部は崎を除いて表向きの処断はされず、崎も軍法にかけられたが拠不十分でとなった。 世間一般では「判断に乏しい将校らが怪しい中の思想に教唆されて犯行に及んだ」とされ、その思想やは説明されることはなかった。 関係者が口を開くことができるようになったのはであり、詳しい裁判記録が発見・開されたのは何とになってからだった。 その後 事件にがあるとされた皇は随時予備役に編入され、陸軍内は統制導のもと粛軍が進められた。 また、退役した皇将校を復活させないと言う口実を元に軍部大臣現役武官制が敷かれ、が陸軍を掣肘することがより困難な情勢となった。 しかし、導権を握った統制もや南進・北進論の対立に見られる・内部対立に悩まされた。 また、情勢は・外交の失敗もありを経て泥沼化。 合法的に高度防を作り上げると言う統制の論みは成功したが、それは化のでありでの対戦開始で頂点を極めると共に破局を迎える。 一方、皇は壊滅したが陸軍内では隠然とその勢を保ち、後半より統制のが衰え始めるとにも関与。 暗殺計画など、ところどころで暗躍することとなる。 (余談だが、この敗戦を巡る争いが問題につながっており、うがった見方をすればまで続く一の二・二六事件のである)。 皮なことに、この陸軍内の反統制人脈と二・二六事件の者で生き残りの・啓介の導によりはへのを歩むことになる。 評価 未遂に終わったとは言え、他の列強諸では見られない尉官の反乱であるため、内外問わず当時から衝撃を与えた。 ただし、的には肯定的な意見は少なかった。 同情論もあり助命をする者(、長勲、顕)もいたが、の断固たる意志とこれ以上の事件を防ぐと言う意味で厳罰が下された。 民の間ではこの事件を起点にの化や軍部の専横が立つようになったと言う印もあり、もしばらくは否定的な印が立ったようだ。 ・思想界では左右両ともに分かれており、は「もやってはいけないと思っていたこと」をやったとして、しい憤りを覚えたことをの著書で述べている。 一方、彼を底的に嫌っていたは「この事件こそ精との衝突である」と述べ、全面的に肯定する作品を何部か描いている。 年安保や年安保での参加やが盛んになると、本事件もその流れで解説されるようになった。 作品などでも盛んに取り上げられている。 ただ、近年は裁判記録やなどから当事者たちの思想信条は大したものではなく、単に功名心や対立相手への敵愾心により、上層部の閥対立の構図を十分にできないまま事件を起こしたのではないか、とする意見も強くなっており、過剰な賛美や否定を伴った評価・作品は見られなくなっているようだ。 旧来の皇統制と言う図式も見直しがあり、そもそも将校は皇ですらないとする論も有である。 これに伴い、北らの裁判の不当性も浮き彫りになり、大逆事件や多喜二殺などと並び事件の一種と評されることがある。 その他よもやま• が受けた衝撃はすさまじいものであったらしく、もこの時期になると落ち着かない様子だったと言われる。 有名なの「」(のがをさらっていると言う噂)はこの事件の将校をにしていると言う説がある。 言論封殺で事件の全容がにまで伝わらず、噂が独り歩きしたと言う。 に巻き込まれてしまった兵卒の中に前座時代の、でやを撮った四郎がいた。 特にはその様子がの討ち入りのようであったこと、将校に半ば脅されて下士官・兵卒相手に寄席をやったことなど、当時の雰囲気について重な言を残している。 の「 」のでは6年からが開始するため、栄えある(?)ー1である。 鎮圧・成功のどちらを選んでも介入義にが振れる代わりに、独裁・側にも降れ独裁化してしまう。 このため、連合軍での参戦や対同盟を考える場合は回避が推奨される。 現場のや地位の低いの離反を「の二・二六」と呼称することがある。 関連項目• - 軍は当初から鎮圧をし、当艦のをに向けている。 参議官という、軍人版枢密院みたいなのの構成員が、6年に、皇族と寺内寿一(次期)陸軍大臣を除いたが綺麗さっぱりいなくなっている点は注すべきか。 陸軍の意思決定が複雑であるかのように言われているが、敢えて複雑にして何も決定できない形を作り上げ、「官」かつ「最先任」である寺内寿一の一で全てが決まる流れを作ったに過ぎない。 石根が葬られたのも、時点で、寺内より先任の「一の」であったからという見方も可。 あと、元は「の」と言われるさで知られているが、というはそう軽いものではない。 押せば言う通りに動くが、押すには「相応の」が必要。 以外で元を「押す」ことができるのは、寺内寿一以外に見当たらない。 問題は、現代に至ってもまだ寺内寿一に対するがなされていない点。 やでさえ「」されているにも関わらずである。 97 削除しました.

次の

「クーデター」2・26事件を経験した若者達の「それぞれの回想」(神立 尚紀)

二 二 六 事件 成功 し てい たら

三島由紀夫と磯部浅一 (2・26事件) 三島由紀夫に『文化防衛論』があります。 ここに収載されている「『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」は2・26事件の首謀者の一人であった磯部浅一の『獄中手記』に関する論考です。 この2・26事件は昭和11年、1936年に発生しました。 陸軍の青年将校などが、大蔵大臣高橋是清・内大臣斎藤実・教育総監渡辺錠太郎らに加え、岡田啓介首相の身代わりで秘書だった松尾伝蔵も殺害しました。 この他、警察関係者も5名亡くなっています。 鈴木貫太郎は重傷を負いましたが、一命は取り留め、終戦前には総理大臣となりました。 負傷者はこのほか警察官にも数名ありました。 また前内大臣の牧野伸顕は湯河原に居て、ここにも反乱軍兵士が押し掛けましたが、逃げて無事でした。 2・26事件とは要するに、陸軍の青年将校らによる失敗したクーデターでした。 この事件は、天皇の強い意思によって鎮圧されました。 そもそもが憲法停止など、過激な思想などを信奉した首謀者らによって起こされた事件です。 天皇の指示の前に、なぜ軍の幹部が徹底鎮圧を行わなかったのか、このことが当時の陸軍を象徴していると思います。 磯部浅一は当時、元一等主計でしたが、反乱罪で死刑となりました。 この磯部浅一の『獄中手記』について、三島由紀夫は何を書いたのか、そこを整理したいと思います。 (磯部浅一『獄中手記』) 磯部浅一は獄中で何を語ったのでしょうか。 彼のコメントからそのポイントを探ってみます。 テキストは中公文庫2016年2月25日、2・26事件の前日の日付で出版された『獄中手記』を用います。 「渡辺は同志将校を弾圧したばかりではなく、三長官の一人として、吾人の行動に反対して弾圧しそうな人物の筆頭だ。 天皇機関説の軍部に於ける本尊だ」(P36) これは渡辺錠太郎・教育総監の殺害理由の一つに、天皇機関説を支持していたことがあるということです。 帝国憲法はいわゆる国家法人説を基礎としています。 天皇機関説はこの国家法人説から発しています。 尾佐竹猛は『日本憲政史の研究』において、伊藤博文の国家法人説に関する所見を引用した後、「この説はどの程度迄伊藤の頭に這入ったかは疑問であるが、兎も角、機関説輸入の最も早き一人として伊藤を数ふることが出来る」そう述べているほどです。 この国家法人説をかいつまんで言えば、天皇が国家の内にいるか外にいるかの問題です。 国家法人説については、君主つまり天皇は国家の内に位置づけられます。 国家機関の長であるから、天皇機関説ということです。 国家を超越したものではありません。 磯部浅一は天皇機関説排撃の立場ですから、この点で、彼が反帝国憲法論者だったことが分かります。 「日本改造方案<法案>大綱は絶対の真理だ、一点一画の毀却<棄却>を許さぬ」(P107) 北一輝の著した『日本改造法案大綱』のことを指しています。 磯部浅一は北一輝と西田税を信奉していました。 ですから「大綱は絶対の真理だ」となるわけです。 この北一輝の『日本改造法案大綱』は、憲法停止、三年間の戒厳令、私有財産限度・私有地限度、華族制廃止、国家の生産的組織など、GHQの日本占領政策に似ていると、よくいわれますが、そういった項目が記されています。 北一輝は本名を北輝次郎といいました。 輝次郎の名で自費出版したのが明治39年『国体論及び純正社会主義』でした。 この中に彼の教育勅語観が表現されていますので、引用してみます。 「天皇が如何に倫理学の知識に明らかに歴史哲学につきて一派の見解を持するとも、吾人は国家の前に有する権利によりて教育勅語の外に独立すべし。 天皇が倫理学説の制定権を有し、歴史哲学の公定機関なりとは大日本帝国に存在せざる所の者にして、妄想によりて書きたる眩影を指して天皇なりと誤るべからず」(P620) 「天皇が倫理学説の制定権を有し」に誤りがあります。 ポイントは教育勅語の「皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」の解釈です。 この「徳」はいわゆる「徳目」ではありません。 「しらす」という無私の意義を含む天皇の統治、井上毅の言葉でいうと「君治の徳」つまり「君徳」です。 『井上毅伝』がその証拠です。 「徳目」を制定した、などとは教育勅語にありません。 国のはじめから「君治の徳」を承け継いできた、そう記されています。 この「君徳」は我が国の「法」であり、惟神の道(かんながらのみち)であり、英国でいうコモン・ローということです。 これはまたあとで触れたいと思いますが、実はこの「天皇が倫理学説の制定権を有し」という見解は丸山眞男なども同じでした。 丸山の「超国家主義の論理と心理」から引用します。 「第一回帝国議会の招集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占決定者たることの公然たる宣言であったといっていい」 「君治の徳」つまり天皇の無私の統治は「しらす」に象徴され、領有とか専制の意味では「うしはく」といわれます。 「うし」は「大人」「領主」で「はく」は沓を「履く」で、領主が身につけて、つまり私物化して統治する、そういうイメージでよいと思います。 「故に、教育勅語の中に在る『皇祖皇宗徳を建つること深厚なり』の語が、ルヰ十四世の専制を想望する今の復古的革命主義者の見解に合せず、古今の天皇皆ルヰ十四世の如き専制権を振ひしと解すとも亦等しく彼らの自由たるべし」(国体論P620) この文言の間違いも、先ほどの説明から明らかです。 これらから、北一輝は教育勅語を曲解していると断定できます。 教育勅語は渙発されてすぐ、那珂通世や井上哲次郎らによって誤解されました。 それは今日まで訂正されていませんが、北一輝も同じように誤った解釈をしていたことは明らかです。 ところで帝国憲法と教育勅語は井上毅が深く関与していたことは、周知の事実です。 ですから北一輝が教育勅語を誤解していたことは、帝国憲法も伊藤博文『憲法義解』とは異なる解釈をしていたと、考えざるを得ないということです。 万世一系を批判する件も、根拠が希薄で説得力がありません。 西田税については、その「無眼私論」などからすると、北一輝とほぼ同じですので省略します。 (磯部浅一の詔勅解釈) 「公判中に吾人は右の論法を以て裁判官に迫った、所が彼等はロンドン条約も又七、一五も統帥権干犯にあらず、と云って逃げるのだ」(P91) 統帥権干犯問題です。 磯部浅一はロンドン海軍軍縮条約の締結について、統帥権を干犯したと述べてます。 また、七、一五は教育総監・真崎甚三郎の更迭です。 すでに語り尽くされていますが、国際条約の締結は天皇大権の範囲です。 また軍事に関しては軍政と軍令があります。 統帥権とはこの軍令に関するものですから、軍縮条約の締結が統帥権干犯であるとは、憲法解釈の逸脱も甚だしいと思います。 『憲法義解』や美濃部達吉『憲法撮要』にその詳細が記されています。 「北、西田両氏の如き真正の士と同志青年の様な真個の愛国者をなぜ、現人神であらせられる天皇陛下が御見分になることが出来ぬのでしょうか」(P127) これも歴史の事実を無視しているか、誤解している文章です。 天皇が自らを「神」と宣言された文章は、歴史上ひとつもありません。 現人神=天皇は誤りです。 文武天皇即位の宣命などを読むと、その誤解が分かります。 昭和21年元旦のいわゆる「人間宣言」ですが、この草案に深く関与した当時の侍従次長・木下道雄は「現御神止」は「しろしめす」の副詞であると明言しています。 これは本居宣長や小中村義象にも明らかです。 「あきつみかみと おおやしまぐに しろしめす すめらが・・」ですね。 この天皇の統治、「しろしめす」の副詞として「あきつみかみと」が用いられています。 「私心なく、祖先の叡智にしたがって」と言う意味です。 磯部浅一はこれを解読できず、単純に天皇=現御神=現人神と連想したと考えて妥当であると思います。 磯部は信奉する北一輝を引用して次のように語っています。 「神の如き権威を以て「日本民族は主権の原始的意義統治権の上の最高の統治権が国際的に復活して、各国家を統治する最高国家の出現を覚悟すべし」と云って居る所は、正に我建国の理想たる八紘一宇の大精神を、現日本に実現せんとする高い愛国心のあらわれであるのです」(P139) 世界に君臨する日本ということですが、この八紘一宇が教育勅語の誤った解釈から出ている認識は見られません。 そもそも北一輝も磯部浅一も教育勅語を曲解しています。 教育勅語の「之を中外に施して悖らず」の「中外」を「国の内外」と解釈しているのは明らかですが、この「中外」は「宮廷の内外」あるいは「朝廷と民間」です。 「国の内外」ではありません。 これについては『元田永孚文書』や『井上毅伝』が有効な資料です。 総じて磯部浅一は、国典への理解が不足していると考えて間違いないと思います。 「中外」は仁明天皇紀などに多く用いられています。 以上のことから、磯部浅一の言説を客観的に分析してみたいと思います。 まず、帝国憲法や教育勅語に天皇=現人神はありません。 繰り返しますが、これは伊藤博文『憲法義解』そして『元田永孚文書』『井上毅伝』に明らかです。 磯部浅一は天皇を現人神と記しましたから、これは誤りです。 次は天皇機関説についてです。 これも磯部は否定しました。 しかし先ほど挙げた資料などから、帝国憲法が国家法人説を基礎にしている、つまり天皇機関説であることは明白です。 これに対するものが天皇親政論であり、それは専制政治に通じますから、帝国憲法第4条などにはっきり反するものであると、そう断言できます。 その第4条は「天皇は国の元首にして、統治権を総攬し、此の憲法の條規に依り之を行う」というものです。 磯部の教育勅語解釈についても検証が必要です。 彼は「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「徳目」と解釈しました。 北一輝の解釈を批判していませんから、そう考えてよいと思います。 また、八紘一宇についても疑問を感じていません。 この田中智学が造語したといわれる八紘一宇は、教育勅語の曲解から生まれたものでした。 「之を中外に施して悖らず」を「皇道を四海に宣布」というように、彼もこの「中外」を「国の内外」と誤りました。 この根拠は先に述べた通りです。 以上のように、これだけ根本的な項目について曲解があれば、それを基礎にした彼の論は、まさに謬論というしかありません。 (三島由紀夫「『道義的革命』の論理」) 最初に、この中で触れている橋川文三の論文について、簡単にお話しします。 彼は「昭和超国家主義の諸相」を書きましたが、この「超国家主義」は丸山眞男のそれではなく、したがってGHQが「神道指令」で定めたものとも異なっています。 ですから橋川文三が、丸山眞男がテーマにした超国家主義を批判しても意味がありません。 実際にその内容は前提があやふやで、彼独自の定義に基づいた内容です。 一方丸山眞男論文は、その評価は別として、対象としたテーマはまさしくGHQが「神道指令」で定義した超国家主義を論じていますから、これは検証が可能です。 したがってここではこれ以上橋川論文には言及しません。 詳細はインターネットサイトー「みことのり」を読むーの「丸山眞男・超国家主義論のカラクリ」に公開しています。 三島由紀夫はこう述べています。 「明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。 この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八紘一宇の思想にまで発展するのであるが、・・」(P69) 三島は「現代アメリカの「自由と民主主義」の使命感を見よ」(P70)と書いてますが、これがアメリカの道義ということは分かります。 しかし我が国の道義が何であるか、わかりやすい説明はありません。 「二二・六事件の悲劇は、方式として北一輝を採用しつつ、理念として国体を戴いた、その折衷性にあった。 折衷の原因がここにあったということは、同時に、彼らの挫折の真の美しさを語るものである」(河出文庫「二・二六事件と私」P255) 難解な文章が続きます。 この「道義的革命」の具体的説明はありません。 野口武彦『三島由紀夫と北一輝』も参考までに読んでみましたが、やはり説得力のある説明はありませんでした。 北の『国体論及び純正社会主義』には次のような文章があります。 「今日の天皇は国家の特権ある一分子として国家の目的と利益の下に活動する国家機関の一なり」(P501) 北一輝は天皇機関説でした。 天皇を特別な存在とせず、国家の中に包含して社会の変革を実施する、そういうことだと思います。 共通しているのは社会の変革ですが、これに対し、磯部らは天皇を現人神として祀り上げることで、自分たちの理想を実現しようとした、ということだと思います。 磯部等は天皇機関説を排撃しました。 これは北一輝と異なります。 三島由紀夫は「二二・六事件は、このような意味で、当為の革命、すなわち道義的革命の性格を担っていた」(P70)と記しています。 「天皇御一人をゾルレンと認め」とありますから、この当為は、行為をなすのは、天皇ということでしょう。 そして「大御心に待つ」と三島は書いています。 つまりクーデターの後、天皇がこれを認める、そういう期待を持つこと、その意味だと思います。 それが「道義的革命」である、天皇から統治権を簒奪するものではない、そういう意味と考えて少し整理がつきます。 (三島由紀夫の詔勅解釈) 「明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。 この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八紘一宇の思想にまで発展するのであるが、・・」(P69) 「擬制」というのは、明治憲法と教育勅語について述べたと考えることも可能です。 言い換えれば、政治と道徳がひとつになった天皇制、そういう見方です。 そうすると、ここにある八紘一宇も一つのポイントになります。 言論の世界では「斯道論」というのがありました。 この場合、具体的には教育勅語の「斯の道」です。 「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」 たしかに明治憲法と教育勅語は順接の関係です。 したがって、もし道義国家という言葉の具体的な内容を探すとしたら、やはり「斯の道」に求めるしかありません。 「斯の道」の解釈はいろいろ云われてきましたが、これは教育勅語の「我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に」から「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」までのすべてとしてよいと思います。 なかでも昭和戦前の論者が特に好んで用いたのが「肇国」と「樹徳」でした。 これから「建国の精神」を「中外に施して悖らず」、「皇道を四海に宣布」という風に拡大解釈したわけです。 八紘一宇は道徳的なもの、そういわれたりします。 しかし具体的にはよく分かりません。 教育勅語の徳目を世界に拡大することが、三百万人以上の犠牲者を出した、あの戦争の目的であるとは考えられません。 大東亜共栄圏構想とは、天皇を戴く日本がアジアの盟主となる、そういうものでした。 その構造は、三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』が解明したように、天皇の御稜威による大共産主義圏でした。 自由主義国と戦い、ソ連に仲介を求めたことが、わかりやすいその証拠です。 さて、三島由紀夫の教育勅語解釈とはどのようなものであったのか。 直接的に著されたものがあるかどうか、私には分りません。 ただ、何の疑いもなく八紘一宇を引用したり、北一輝や丸山眞男を、教育勅語解釈の点から批判していないところを見ると、やはり彼らと同じような解釈だったと考えて妥当です。 いま、三島由紀夫『文化防衛論』(1969年新潮社)から、三島が丸山眞男を引用した部分を確認してみます 「天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。 そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである」と書いたとき、氏が否定精神によってかくも透徹的に描破した無類の機構は、敗戦による政治的変革下に完全に破壊されたように見えたのであった」(P54) これは、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」を論じたものです。 しかし丸山眞男が教育勅語を曲解していた分析は見られません。 この曲解は八紘一宇につながり、昭和戦前における日本人の精神史を形成したほどです。 GHQ日本占領も、このテーマで読み解くと「神道指令」「人間宣言」「公職追放」も、その発表の経緯がよく理解できます。 「かくていまや超国家主義の描く世界像は漸くその全貌を露わにするに至った。 中心的実体からの距離が価値の規準になるという国内的論理を世界に向って拡大するとき、そこに「万邦各々其の所をえしめる」という世界政策が生れる」 上記の文章に関し、丸山眞男は「第一部 追記および補註」において、ある図を引用している。 昭和8年に毎日新聞社が陸軍省と協力して製作した映画「非常時日本」からのものである。 この論文は発表後すぐに広い反響を呼んだと本人は記しているが、評価が定まってから図を引用して分かりやすく説明した魂胆は見え透いている。 そしてこの図は、筆者が、丸山眞男の解釈に副って、教育勅語の第三段落「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」を図式化したものである。 この二つの図の相似性は疑うべくもないだろう。 丸山の引用は何のことはない、その図の基となっている教育勅語が国会で排除・失効確認決議がなされ、世間からは忘れられていたからである。 ただし、ここに大きな誤りがある。 この「中外」は「国の内外」ではない。 「宮廷の内外」「中央と地方」であり、意訳をすれば「国中」である。 その内容は当サイトの「教育勅語」や「国家神道」に記してある通りである。 しかし丸山眞男はこれを曲解している。 以上で引用を終わります。 ポイントは「中心的実体からの距離が価値の規準になるという国内的論理を世界に向って拡大するとき、そこに「万邦各々其の所をえしめる」という世界政策が生れる」この部分です。 「世界」云々は「中外」の曲解から始まりました。 丸山には生涯これが解りませんでした。 三島由紀夫には、この教育勅語解釈の徹底批判がないために、彼の文章は非常に分かりにくいものとなっています。 文芸作品は別として、自身の見解を述べるや論文やエッセイなら、確実な根拠が必要です。 「彼はその肉体の不死の信念を、現人神信仰からこそ学んだにちがいないからである」(P85) この現人神という発想ないしは信仰。 少なくとも昭和戦前の現人神信仰は、文部省「国体の本義」から分かるように、宣命にある「現御神と」の曲解であることは間違いありません。 これも先に述べましたが、本居宣長や木下道雄らにその詳細があります。 また津田左右吉らは、天皇現人神論でしたが、文献にそうして祀った事実は見られないと、彼らの矛盾ですが、はっきりそう述べています。 ここで「『道義的革命』の論理」を整理してみます。 まず三島由紀夫は磯部浅一の『獄中手記』を採り上げました。 その磯部は北一輝の信奉者でした。 北一輝は北輝次郎の名で『国体論及び純正社会主義』を書いています。 その中にある北輝次郎の教育勅語解釈は、伝統的な曲解に満ちています。 繰り返しますと、樹徳深厚の「徳」を「徳目」と解釈しました。 だから、「天皇が倫理学説の制定権を有し」となっています。 この「徳」は「君徳」つまり「君治の徳」ですから、倫理学云々は関係ありません。 また、北は帝国憲法第一条の「万世一系の天皇」についても、誤解があるように思います。 彼の天皇はあくまで今上陛下といういわば個体であって、歴史的御位の天皇ではありません。 天皇の統治は「しらす」という無私のご精神、つまり惟神の道、我が国の「法」いわばコモン・ローに遵って行われます。 北にはこの視点がありません。 少しややこしくなりますが、天皇機関説は、天皇は国家の中にあるということです。 国家を超越する存在として天皇を位置づけません。 これで憲法が有効に機能します。 天皇が国家の外なら、どのような憲法でも無視することが可能です。 北一輝も磯部浅一も、天皇を社会の改革のために利用しようとしたことは明白です。 さきほど述べたように、その方法には違いがありました。 三島由紀夫が磯部の2・26事件を「道義的革命」とした理由が、「大御心に待つ」、これで理解できます。 結局のところ、三島由紀夫「『道義的革命』の論理」は磯部浅一『獄中手記』を基にし、磯部は北一輝『日本改造法案大綱』(北輝次郎)『国体論及び純正社会主義』を基礎にしています。 そしてこの北一輝は、教育勅語を曲解し、それゆえ明治憲法の理解も伊藤博文や井上毅のそれとは異なっていました。 つまり三島由紀夫は、磯部や北の著作をベースにして、彼らの教育勅語解釈の誤り、天皇現人神という謬論、これらを批判することなく論を展開したというしかありません。 「『道義的革命』の論理」が分かりにくいのは、これらのことによると思います。 少なくともこの2点は、GHQ日本占領期や日本国憲法などの問題点解明に欠かせないポイントです。 その意味でこの「『道義的革命』の論理」は、昭和戦前の象徴的な2・26事件の思想分析を欠いた論考である、そう言って、言い過ぎではなと思います。 (三島由紀夫の小説と論考) 三島由紀夫の『英霊の聲』は小説です。 つくり話です。 したがって読み手には自由な解釈が許されます。 しかし「二・二六事件と私」は小説ではありません。 読み手はその根拠の正否を問うことも可能です。 「昭和の歴史は敗戦によって完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきていた。 これは文士たると否とを問わず、生の自然な欲求と思われる」(「二・二六事件と私」P256) かつて尾崎士郎が同じように思い、『天皇機関説』を書きました。 「この動揺する時代の動きを把握するために「天皇機関説」に重点を置いたことは此処に昭和の動乱を認識するための、もっとも大きな鍵があると信じたからである」 昭和10年の天皇機関説問題、昭和11年の二・二六事件、そして国体明徴運動から昭和12年文部省「国体の本義」まで、歴史は連続しています。 この後は八紘一宇を唱え、我が国は対米戦争に突入し、敗戦となりました。 さて問題はGHQ日本占領です。 「神道指令」「人間宣言」そして憲法は改正されて日本国憲法となりました。 この歴史を一貫して流れているのが、私見では「詔勅解釈」の問題だと思います。 昭和戦前の天皇=現人神(現御神)論、天皇親政論。 これらは国典解釈、詔勅解釈の誤りから発生しました。 これが天皇機関説問題となり、さらには八紘一宇まで拡大しました。 しかし日本国憲法の前文と第98条によって、詔勅は「効力を有しない」とされました。 以後、今日に至るまで、詔勅研究は発展していません。 教育勅語や即位の宣命が、未だに誤解され続けているのが、その証明です。 三島由紀夫はさらに続けてこう述べています。 「そのとき、どうしても引っかかるのは、「象徴」として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのずから、二・二六事件まで、一すじの影を投げ、影を辿って「英霊の聲」を書かずにはいられない地点へ、私自身を追い込んだ」(「二・二六事件と私」P257) これを読む限り、三島由紀夫は「人間宣言」の真意を、理解していなかったと考えて妥当です。 文武天皇即位の宣命など、一つも出てきません。 戦後における我が最高レベルで世界的作家の三島由紀夫。 しかしこの小説ではない「『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」は、残念ながら歴史の検証を欠いたものでしかありません。 三島は磯部浅一という過激な思想を有した人間の、心情の解明には成功したかもしれません。 しかし一方で、昭和史の重要な歴史用語である「現人神・現御神」「八紘一宇」などについての分析をしませんでした。 加えて丸山眞男論文の核心部分を徹底批判しませんでした。 これも天才文芸家・三島由紀夫の一面です。 『英霊の聲』は昭和41年6月に発表されました。 「人間宣言」を解説した木下道雄「昭和二十一年元旦の詔書について」(『宮中見聞録』)は昭和42年元旦に出版されています 証拠もなく、確認のできないことではありますが、木下道雄は『英霊の聲』を読んだ上でこの「昭和二十一年元旦の詔書について」を書かれたのではないかと、考えたくなります。 木下道雄は東京帝大法科卒ですから、三島由紀夫はその後輩です。 木下道雄は当時、侍従次長として「昭和二十一年元旦の詔書」いわゆる「人間宣言」に深く関与しました。 これがもし逆の順番で公開されていたら、どうなっていたかは分りません。 以上はたんなる憶測です。 ただ、三島由紀夫が教育勅語をはじめとする詔勅の解釈に取り組むことがなかった、これはまことに残念としか言いようがありません。 「三島由紀夫と磯部浅一」、お聴きの方の中には、驚かれた人もあるかもしれません。 しかし詔勅研究の衰退は事実であり、木下道雄のような人はいなくなりました。 今日の昭和史はここを語りませんから、歴史の因果関係がどうしても分りません。 結局のところ、昭和史がエピソードの寄せ集めになっているのは、やむを得ないことだと思います。 最後になりました。

次の